論 考

迷妄の深い霧

 神宮外苑の再開発問題について考える。

 事業の進め方は荒っぽく強引で、少数の地域住民を抑え込めばよしといわんばかりである。事業者は明治神宮と大手不動産、それに東京都もだ。

 既成事実を先行させて、合意形成を軽視する。いつもどこでも見聞きする典型的な手法である。

 再開発といえば語感が素晴らしいが、reborn(再生)できるかどうかは容易には判断できない。建築物が新しく大きく変わっても、入れ物が中身の質を作り出すのではない。

 再開発の大事は、古い酒を新しい酒にしようという合意があって、新しい酒は新しい酒袋にという理屈でなくてはならない。

 再開発は、神宮球場と秩父宮ラグビー場を建て替え再配置し、高層ビル3棟を建設するものだが、少し想像しただけでも生活居住空間の印象はない。

 再開発とは、人々の生活が変わる。間違いなく地域社会の生活文化がテーマであるし、その地域を包含しているさらに大きな地域の文化の課題でもある。

 再開発とぶち上げながら、実は容器だけ新しくするのでは、再開発の言葉が妥当しない。もうこれは戦後一貫して指摘されてきた日本的迷妄であり、建設物が新しくなるぶん、迷妄が病にも見える。

 1960年代には、大鍋でごった煮が沸騰しているかのようにジャンジャン日本の景観が変わった。高邁な文化論などご免、変革だ、行動だという掛け声が聞こえてくるような大都市の雰囲気だったなあ。

 明るい部分だけみると、まあ、とにかく元気、いったい日本人のエネルギーはどこから来るのだろうか! と感動を覚えるような反面、夜が明けるのをなんとか喫茶の片隅でひっそり過ごす人々の人生のシワが払いのけられない心地もあった。

 あれから60年過ぎても、なにも変わっていない。わびしいもんだ。ごった煮の活力はなくなったみたいだが——