論 考

報道の客観性

 アメリカでは、報道の客観性を巡る議論が盛んらしい。アメリカ社会の分断に対する危機感が深い。

 客観的に報道しているのに、嘘とハッタリ塗れのトランプ大統領が誕生した事実に対する落胆も大きい。

 従来、客観的に報道しているという安直感が支配していたのではないか。そもそも完璧な客観性はありえない。

 デカルト(1596~1630)が「認識は対象の模写ではなく、主観が感覚の所与を秩序づける」と主張したとおりである。

 客観性の手立てはエビデンスだが、トランプ並びに支持者には通じない。かれらはまったく自分たちの主観だけで世間を見ている。つまりは、主観と客観の違いなど考えない。自我に気づかない子ども時代と通ずる。良識や、公正などの概念はもちろんお持ちでない。

 報道の客観性をめぐる議論は、まだ、入り口程度に思える。報道した記者は盛り上がっており、あたかも論争のピークのような「客観的」文章だが、あまり問題の本質が理解されていないようで残念だった。

 いや、この表現はキツイ、今後に期待すると書くべきか。客観性批判派は、この小さな違いも客観性を装って逃げていると批判する。賛成だ。