論 考

考えてもらう危険

 人間が「認識」することは生きている限り継続する。ただし、ぼやっと、あてどなく考えている状態は正しくは認識していない。

 認識はいわば知るための働きである。

 認識するために考える行為は、主体的・自発的行為である。他人に考えてもらうのではなく、自分自身が考えるしかない。

 話題のチャットGPTは、いかに素晴らしい技術だとしても、それを使う自分自身が利口になるわけではない。

 こんにち交通機関が発達しているが、だからといって個人の肉体的能力が進歩としたわけではなく、むしろ、退化傾向にある。

 考える作業を代行してくれるAIの進歩が、人間から考える力を骨抜きにしないようにするには「大変」な活動を要するのではなかろうか。

 人間力+AIが、結果としてゼロサム関係にならないようにするにはどうするべきか。こんな議論が大事なのではあるまいか。