週刊RO通信

たまには仕事の意味を考える

NO.1481

 日本企業がおカネを溜めこむばかりで、リスクを取って挑戦しないから、外国人投資家には魅力がないという論調が主流だ。その甲斐あって! 1ドル148円ともなり、日本の経済力の著しい低下が反映している。

 社員の立場からすると、外国人投資家が鵜の目鷹の目で狙いをつけるような企業だと、自分たちの雇用が心配になるから、そうでないほうが日々安心だという見方もできる。それにしても日本企業に魅力を感じてくれないというのでは、自慢にはならない。そこでまず、社員自身がわが社に魅力を感じているのかどうかという視点を起こしたい。

 筆者が徒弟社員をやっていた当時、いまから60年前は、おおかたの企業は、わが社員の愛社精神を育てるのに一所懸命だった。

 1966年に中国で文化大革命が始まるや、最初に反応したのは経営者だった。わが社員も号令一下奮闘してもらいたいと思ったのだろう。ポケットに毛沢東語録を忍ばせて喜んでいる? 経営者が少なくなかった。

 上意下達の愛社精神など厚化粧である。本当の愛社精神は、社員が仲間と同じ職場で働くことを喜ぶ、連帯感の拡大にこそある。縦の愛社精神ではなく横の連帯感こそが勝負である。いまは、どうだろうか? どうも元気がない。愛社精神はもちろん、連帯感薄い。もちろん部外者の見方ではあるが。

 社員が魅力を感ずる会社というのは、労働条件のよさだけではない。社員が魅力を感じる会社活動を作っていくという、単純な課題を思い出したい。

 第二次世界大戦後、イギリスでは、「ハンドからヘッドへ」という言葉が産業界でおおいに語れらた。その心は、経営とは数を集めて仕事をこなすのではなく、協力者を得るのだというにあり、さらに、従業員は労働者である前に人間だというのである。当たり前のことだが、さっこんのわが産業界では、なにやら非常に新鮮な響きを感ずるのではないだろうか。

 労働組合が、「労働力は商品ではない」とぶち上げたのは、虚勢ではなかったはずだ。資本主義の仕組みにおいては、労働力は商品である。それを現実的に変質させていこうという心意気であったはずだ。こと志が空振りで、諸物価値上がりにおいて、労働力商品だけは値上がりしない。消費者が喜ぶどころか、賃金で生活する消費者は大変苦労している。

 しかし、柳に風というべきか、泰然自若とほめるべきか、働く人の声が大きくならない。すでに、連合の23年賃上げ方針議論が進んでいるが、部外者には、賃上げへの熱意が見えない。密かに大決意しているのだろうか。

 賃金闘争華やかなころ、二十代の筆者は、毎月小遣い不足で不自由しているにもかかわらず、賃金交渉そのものにはあまり興味が湧かない。所詮、出せ出さないの取引にしか見えなかったからだ。にもかかわらず組合活動にのめり込んだのは、仕事や生活を真剣に見つめ、しばしば侃々諤々の論議が巻き起こる組合活動に強く惹きつけられた。

 自分の仕事を天職とは表現しないが、ここ一番「これは、わしの仕事だ」という自負を感じさせる人が少なくなかった。厚化粧の愛社精神ではない。彼らの意気地が、あちらこちらの職場の連帯感の土壌であった。

 だいぶ後になって、「金のために労働をくれてやるものは、誰でも自分自身を売って奴隷の位置に身を落とす」(キケロ 前106~前43)の含蓄を理解して、彼らが誇り高い労働者である理由を飲み込めた。(もちろん、低賃金上等と言いたいのではないから誤解なきようにお願いする。)

 また、次のような言葉も身の引き締まる心地がする。――私は私の生産活動において、私の個性とその独自性を対象化し、(活動の間に)個人的生命発現を楽しむとともに、(生産した)対象物を観照することによって個人的な喜びを味わう。――これは、元気な労働の本来の姿を核心的に表現している。賃金奴隷の姿はどこにも見えない。誇り高き労働の表現である。

 これが、労働観である。日本企業の活力のなさは、相変わらずハンドばかり採用する性根だからだ。それを変えさせるのは、労働組合に結集する組合員である。会社人事の質は、1980年代以降ガタ落ちした。極論すれば日本企業に誇り高き人事観は存在しない。このままでは、産業界は沈没するのみだ。とりわけ、労使関係に関わる方々の一念発起を期待する。