週刊RO通信

首相の座の意味と岸田氏

NO.1480

 岸田内閣発足1年、昨年参議院議員選挙後の予測では当面の3年間は、選挙がなく、縦横無尽の活躍ができるはずであった。目下は様変わりで、いつ自壊してもおかしくないという指摘も、さほど大げさに思えない。

 岸田氏が3日の第210回国会所信表明演説で語ったごとく、国難ともいえる状況に直面しているとしても、その前に岸田氏自身が首相としての器かどうかを問われる事態にある。最大の問題は自身の言葉がまるで信頼されていないみたいで、その原因たるやいわば一人芝居というしかない。

 言葉が信頼されなければ、人々の共感が発生しない。「厳しい意見を聞く姿勢にこそ、政治家岸田文雄の原点がある」というのが本人の売り言葉だ。しかし、耳はあるが聞いてはいない。厳しい意見は馬耳東風、壊れたテープレコーダーよろしく、同じ言葉を何度でも繰り返すという世間の見方が定着した。果たして首相の座というものをわかっておられるのだろうか。

 現憲法において、首相の法的権限は非常に強い。明治憲法で天皇に属していた統治権のうち、立法権・司法権を除くほとんどの権限を持っている。

 明治憲法では、内閣が一体として強みを発揮するならば、天皇大権に対抗する危険性があるというので、憲法を作った伊藤博文(1841~1909)は、首相の内閣統率力を減殺した。これが奏功? して、歴代内閣はつねに不安定で、初代内閣から敗戦時鈴木内閣までの内閣交代の半分は閣内対立による。

 当時の首相はすべての閣僚と同輩であり、閣内の調停者程度の役割だった。いま、首相は閣僚のクビのすげ替えなど簡単である。完全に内閣の統率者の地位にある。つまり、閣僚は首相の号令一下、全面的に従って行動しなければならない。少なくとも内閣において、首相は専制者である。その点、独裁者プーチンに引けを取ることはないわけだ。

 そこで大事は、なぜ、首相に強い権限を与えたのかである。これを弁えずにプーチンの亜流をやられてはたまらない。すなわち、首相の強力な権限は、首相が国会や国民の意思に忠実であることが前提とされている。こんなことは当たり前だと誰でも思うだろう。ところが、岸田氏は国会の意思にも国民の意思に対しても、真正面から向き合っていない。

 どこかで見た景色である。安倍氏が、官僚任免権を武器として、官僚が安倍氏の意図を忖度し、あきらかな嘘まで捏造するところまで鍛えあげた! 心から安倍氏を尊敬する岸田氏としては、首相としての箸の上げ下げを無意識にしても見習っている可能性がある。これがまことに危ない。

 1970年代あたりまで、わが国においては、「政治家はダメだが、官僚がしっかりしている」から大丈夫という風説が幅を利かせた。官僚は党派性に無関係であり、仕事=国民の公僕として活躍する。しかも、頭がよろしい。バカな政治家に振り回されることなく、日本国のために邁進してくれる。

 本当にそうだったのかどうかは、筆者は知らない。はっきりしていることは、安倍内閣8年間に、官僚諸君が国民の公僕という意識を強く持っておらず、なによりも任命権者にこびへつらう傾向が強いという本性を露呈してくれたことである。

 つまり、官僚機構は全面的に強い権限の首相の機関として活動する。かくして官僚が、首相に対して「それはおかしいですよ」と諫言するような根性があると期待するのは、ないものねだりだと考えておかねばならない。岸田氏が、安倍氏の政治姿勢に本気で懐疑心を抱かないかぎり、岸田氏は安倍亜流である。官僚の眼にもそのように映るであろう。なにも変わらないわけだ。

 首相が、国会や国民に意思に忠実である――というのは、すなわち官僚機構も含めてそのように思索し行動することでなくてはならない。ところが、岸田氏の言動を見ていると、法的権限のカーテンに隠れて、問題の真実に向き合おうという本気がない。その結果、国民の目の前に存在するのは、官僚国家そのものである。専制政治家が、カリスマ性を持っているか持たないかに関わりなく、その政治家の意図で官僚機構が動けば専制政治になる。

 岸田氏が首相の器であるかどうか。とりわけ、国会と国民の意思に忠実たろうとする政治家であるかどうか。――これが、ただいまの政治の本質的問題である。だから、岸田氏の言動を無視できないわけだ。