論 考

学者も1市民である

 ある学者の意見――科学に関わる課題に左右される社会になっているが、学者が行政・立法で責任をもって発言する仕組みがない。政治家は専門知をもっていないから、専門家の知見が十分に生かされる仕組みとして、参議院に学者の議席を用意すべき云々。

 政治を科学するという言葉は、あまりなじみがないが、政治にかかわらず、われわれが直面する問題は、可能な限り科学的に対応しなければならない。

 科学するとはどういう意味かというと、わたしは、理想を弁え・理性をもち・理論的に対処することだと思う。だから、専門知を有する学者は適当のように錯覚するが、絵にかいたような専門的問題は少ない。いろいろ複合している。

 最近の例ではコロナ・ウイルス対策が専門知を必要とする典型だが、体験的には、さすが専門家だという専門知が披瀝されたわけではない。

 それはともかく、学者といえども、民主主義においては1市民であって、学者という市民が格別扱いされねばならない理由はない。そこを押さえず、専門家にお任せとやってしまう発想はエリート主義であり、これが権威主義、専制主義に通ずる危惧を感じた。

 そんなことより、学問研究者の立場から、どんどん研究発表して、問題があれば政治を撃つ姿勢がほしい。政治からのご意見拝聴を待つというのでは、せっかくの学問研究が泣くというものだ。最近は、政治に対する見解を発言する学者が少ない。もちろん、行政の審議委員などになられる先生は多いが、これは、いわば行政の手足である。学者には、もっと元気を出してもらいたい。

 わたしよりだいぶ若い方だが、政治思想史を研究しておられるにしては、奇妙なご意見だと思ったので一言覚書にしておく。