週刊RO通信

ウクライナ問題が示す外交の堕落

NO.1446

 8日、ウクライナ問題についての国会決議がなされた。ロシアを名指しせず、「力による現状変更は断じて容認できない」として、政府にたいしては、「緊張状態の緩和と速やかな平和の実現に全力を尽くす」よう求めた。なにかの役に立つのかどうか。拱手傍観の見本ではあるまいが。

 ウクライナ危機は、プーチン氏の野心が広く伝えられている。しかし、誰もその本心がわからない。本心がわかるかどうかはともかく、ドンパチの事態にさせないためには、関係各国がロシアとの話し合いを続けるしかない。

 11日ブリンケン氏が、「われわれは、侵攻がいつでも起こり得る状況に置かれている」と語った。マクロン氏・ショルツ氏が解決の糸口を求めて奔走しているのと比べると、いかにも挑発的である。

 いずこの国(国家同盟)も、他国を侵略するために軍事力や防衛網を整備しているとは言わない。しかし、相手国からすれば、まちがいなく脅威である。ブリンケン氏の文学的表現は、実は、相手国も同様に考えているのだから、論理上は、自分たちもそのような状況を作り出しているわけで、単純に正義の発言だとは言えない。

 ゼレンスキー氏が「影響力ある政治家がパニックを起こしている」という悲痛な叫びは、十分に理解できる。米欧の戦略にズレが出ている。その挙句は、ウクライナが米欧・ロシア双方によって弄ばれている。

 とくに、アメリカの政治家には、ウクライナ問題に関わることを正当化するほどアメリカの利害に合致していないという意見が出されている。トランプ氏以来のNATO各国にたいする不信感も表明されている。いまは、マクロン氏・ショルツ氏の外交交渉に期待するしかないようだ。

 わが新聞社説は、3日読売が、「米欧は連携して実効性ある対ロ制裁を」、4日朝日が、「プーチン氏に理性を働かせるよう説得を」、12日毎日が、「日本は対話による解決を促す外交を」など論じたが、米欧連携は目下不調であり、アメリカが交渉に腰を引いているような状態にくわえ、アメリカの挑発的情報ばかりが出されるのでは、いかんともしがたい。日本の外交努力なるものが果たして有効に展開されるのかどうか。本気を問いたい。

 現代は、世界に軍縮の機運がまったくない。ひたすら軍拡に精出すばかりである。敵から守るために軍備・軍隊の強化が必要だといえば、人々は、お任せ・よろしくの気風になりやすい。しかし、根元を考えれば軍事力自体が、「こと志と異なって」、疑惑と不安、混乱と無秩序を作り出している。

 ミャンマーのように、軍人が政治をやろうとするのも、多くの国がそうであるように、政治家が軍事力を背景に外交を展開するのも、本質的に道を踏み外しているのではなかろうか。

 真っ当な政治家たろうとするならば、絶対平和主義思想を頭に叩き込んでおかねばならない。軍事力を頼んで外交力だと考えるのであれば、すでに間違いなく軍国主義である。しかも、同盟といえば気に入らない相手を排除することに執心する。軍事力依存は、政治家の無能と堕落である。

 カント(1724~1804)『永遠平和のために』(1795)では、人類は農耕の定着から戦争の時代に入ったが、戦争自体が法的関係に進むよう機能するとし、さらに貿易が盛んになると、商業精神が発達する。商業精神は、本来戦争とは両立しないものだと主張した。理屈はその通りだろう。

 ところが、バカな政治家は、貿易に政治的介入をするのみならず、貿易自体を戦争の道具として使う。なるほど、経済制裁では破壊や殺戮はないようにみえるが、昔の城の水攻めと変わらない。経済制裁自体が戦争である。外交交渉を標榜しながら、経済制裁で恫喝するのは、国境に軍隊を並べて威嚇するのとまったく同じである。

 世界中で混乱と無秩序を起こしている背景を考える。結局は、個人としては非力であるが、軍を動かし得る地位にある人々自身が超人意識にのめり込んでいるようだ。軍を動かす戦争は破壊と殺戮、犯罪である。

 民主主義を唱えても、自分は他者とは違うとのぼせ上っているのではないか。政治家自身が内外に紛争の種を撒いているという自重自戒を、口に出すのではなく、内外の社会と人にたいする謙虚さをもってほしい。