週刊RO通信

春闘の「主人公」に登場してもらおう

NO.1445

 労働組合の社会的影響力が低下している。昔は、こうではなかったなどと語るつもりはない。昔があって、その文脈上にいまの事情がある。組合活動が途絶えたことはない。昔から連続しているのだから、いまの事情は昔の活動の結果である。いまの組合役員はビンボーくじを引かされたともいえる。

 わたしは1963年から82年まで組合で活動した。組合員2千人の支部役員と5万人の本部「ヒラ」役員をした。産別やナショナルセンターの活動は外から見ていたのみだが、「組合力はΣ組合員力」であると確信する。連合や産別は、単位組合を指導する位置にあるが、単組活動に性根が入らなかったら、上部団体といえども、張子の虎でしかない。

 非専従役員に当選したとき、先輩から「ヒラでも権力機構の1人だからな」と言われた。会社の「特別扱い」に慣れたらいかん。組合員あっての役員だ。雇い主は組合員だ。組合員の信任・支持あってこその役員だ。集会で演説していても、この言葉を思い出すとヒリヒリした。けだし至言だ。

 おおかたの役員は真面目であった。ただし、官僚的真面目さが気になる。たとえば担当任務は前例踏襲で、絶対にはみ出そうとしない。仕事きっちりはよろしいが、いかなる状況にあっても、状況に沈没せず、状況を変えていくという問題意識が薄い。これ、いまの組合にも強いのではなかろうか。

 80年代、若い役員から「組合員の組合無関心をどうするか」と聞かれて答えた。――単純なことです。従来の活動の人気が落ちたのだから、違うことをやろう。自分がやりたいことをやろう。組合員がなにを考え、なにを求めているか。それの実現のためにいつもアイデアを温めておきましょう。

 組合エネルギーの根源は人である。組合員と話していれば、そこは宝の山である。われわれが大ヒットを飛ばした中高年対策は、組合員の声に始まって、組合員が学習活動を実践して、組合活動の柱に成長した実績をもつ。

 現役の役員諸氏は十分に知っておられるとは思うが、こんにち、組合の社会的影響力が低いのは、大衆運動ではないからである。組合活動は大衆運動である。組合員が学び行動するから大衆運動といえる。

 ふだん組合と呼ばれているのは、組合機関(役員)のことになってはいないか。いかに優秀なみなさんであっても、機関メンバーの知恵や力だけで組合活動=大衆運動を執行するなど無理な注文である。機関≠大衆運動だ。

 組合にしっかりしたビジョンが必要だというわけで、多くの組合で〇〇ビジョンが打ち出される。ところで、このビジョンがどの程度組合員に周知徹底しているだろうか。壮大華麗な内容であればあるほど、組合員と無縁の夢物語が描かれていることになりかねない。ビジョンだけでは仕方がない。

 90年代に成果主義に取り組んだ労使が多かった。戦後日本の人事を塗り替えるという触れ込みであったが、言い出しっぺの企業も失敗を認めざるを得なかった。内容もさることながら、成果主義の導入に際して、労も使も、社員・組合員全体の討議をやっていない。労使委員会で、使用者側がまとめた内容を公表してお終いというところが多かった。失敗は必然だった。

 組合活動は大衆運動だと書いてきたが、およそ人々の考えや行動にかかわる問題はすべからく大衆運動である。大組織の一部の人士が衆知を集めたとしても知れている。人々にかんすることは人々が自前で思索し討議しなければ本物にはならない。

 いまは、賃金交渉の時期である。政府が賃上げを推奨し、連合と経団連が意見交換をしても、ご本尊の組合員が――まことに静謐この上ない。ホットになることが絶対よろしいなどと言うつもりはないが、いったい、どなたさまのための賃金なのか。景気をよくするために賃上げという理屈はわかるが、組合員にしてみれば生活をよくするためなのである。にもかかわらず、主人公が登場しないのであれば、これはいったいなんなんだろうか。

 今春闘において、組合員次元の意見交換会や賃上げのための集会がどのくらい開催されているだろうか。ナショナルセンター、産別、単組が力を合わせて大キャンペーンを起こすべきである。馬鹿の一つ覚えで恐縮だが、組合活動は、1つひとつの大衆運動に取り組んでこそなのだ。現役役員のみなさんの奮発を期待する。