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文化の風

永野俊雄

 私は1959年(昭和34年)に西武百貨店に入り、西武百貨店本店に勤務し、衣料品部門、食品部門を除く雑貨部門を担当した。その後、ショップ販売部長の発令を受けた。この部門では、従来の仕入れと販売の分業を廃し、ショップマスターが仕入れと販売の責任を持つ制度である。ショップはエルメスなどのブランドブティックを含め、ほぼ全フロアに散在する。この部門は常に新しいショップの開設が求められ、新しい消費ニーズのトレンド・「時代の風」をタウンウォッチング、新聞、雑誌、テレビなどに探し求めるようになった。

 1980年前後の西武百貨店は「生活総合産業」を標榜し、「おいしい生活」という広告コピーが話題になった。小説家、詩人でもあり実業家であった堤清二会長は、西武美術館、セゾン劇場、スタジオ200、映画製作、自営の書籍売場、音と映像の六本木WAVEなどの文化事業に力を注いだ。

 取引先から商品という「モノ」を仕入れて、顧客に販売するという、従来型の仕事を担当していた私は1979年(昭和54年)春、思いがけず文化事業の一環としての「池袋コミュニティ・カレッジ」というカルチャーセンターの開設準備責任者に指名された。

 池袋コミュニティ・カレッジ開設の狙いは、①生涯学習事業を通じて西武百貨店の文化イメージの拡大、②文化商品という新たな品揃えの拡大、③シャワー効果による顧客の拡大・固定化などである。

 1979年10月の開校に向けて、私が就任する前にある程度、開校準備が進んでいた。開校に当って、池袋コミュニティ・カレッジはどのような理念を持つべきか、また、その内容はどうあるべきかなど、高いレベルでの検討をするため、外部スタッフによるアドバイザリーチームを設けた。加藤英俊、なだいなだ、荻昌弘、三枝佐枝子の各氏で構成された。開校準備段階から開校後しばらく続いた。

 開校に当っては多角的な準備が必要であったが、ここでは講座づくり、講座編成に絞って文章を進めてゆきたい。まず、主なジャンルを設定し、どのような講座を作るべきか。また、講師はどなたに依頼すべきか。「モノ」でない講座という商品を作るには、従来型の百貨店人には大きな苦労が伴った。美術・工芸、食品、書籍、手芸・ホビー、スポーツなどの売り場担当者、仕入れバイヤーなどは、取引先、メーカーなどの協力を得て、組織外部からも講座づくりを行った。さらに、文化事業関連の役員や担当者の紹介を得て、講師依頼、講師の紹介を依頼した。その上で、講座担当者はあらゆるルートを開拓して、講座設定、講師依頼を進めた。

 各ジャンルの講座づくりがある程度進んだ段階で、どのようにジャンルを編成し、すべての講座をどのように編集するかが、私に与えられた大きな課題であった。そこで私は、全講座をカードに記入し、自宅に持ち帰った。休日に作業をしたが、なかなかまとまらず、夜中に気になって寝床から起き出し、リビングルームの床に広げて全講座の編集を行った。

 1979年10月、池袋コミュニティ・カレッジは予定通り開校を迎えることが出来た。受講生もほぼ予定度通りの人数を確保することが出来た。その後は1年を4期に分けて、その都度、講座パンフレットを作り、新規会員の募集、受講生の継続受講の促進を進めた。講座開発に当たっては、①文化の状況がどのように進んでゆくか、②同業のカルチャーセンター(朝日カルチャーセンター、よみうり日本テレビ文化センター、NHK文化センターなど)との差別化をどのようにするかが、私の長期的課題であった。これらの作業を「講座マーケティング」と呼んだ。

 池袋コミュニティ・カレッジはその後、親会社の経営が代わっても、今日まで存続している。すでに42年間続いていることは、初代の責任者として喜ばしい限りである。

 池袋コミュニティ・カレッジを担当した事によって、多くの文化人とお会いすることが出来た。詩人の大岡信氏、作曲家の武満徹氏、現代音楽の一柳慧氏、画家の平山郁夫氏などの皆様である。これらの方々は、私の文化の視野を拡げて下さった。

 また、当時の講座づくりの経験はその後、すみだ生涯学習センターの生涯学習専門員、大学での「生涯学習論」の非常勤講師につながった。当時からの習性で、今日に至るまで、「文化の風」と称して、文化の各分野における動きを追い続けている。文化全般、文学・出版、映画・映像、美術、音楽、演劇の各分野の動向を、主として新聞記事に求め、台紙にスクラップしている。すでに高齢者である私にとって何の役に立つのか。認知症の予防にでも役に立つのか。

 企業の人事異動が企業内の能力開発に役立つのは当然のこと。池袋コミュニティ・カレッジへの人事異動は、私の生涯の能力開発に役立った。

 ある時、堤会長からサンシャインビル48階の会長室に呼び出され、(何の用件だったか忘れてしまったが)「お前のような頭の固い奴は秩父セメントへ行った方がいい」と叱責され、しばらくへこんでいた。しかし、上記のような仕事ができたのは、文化を大切にする堤会長の存在があったからである。 

私の生涯で出会ったヒト・コト・もの/ 3永野俊雄  英語・英文学老年