週刊RO通信

アンコンシャス・ヒポクリット

NO.1329

 夏目漱石(1867~1916)の『三四郎』『それから』『門』を貫くモチーフは「愛の形」で共通している。このほど仲間の読書会で『それから』を読んだ。『それから』は1909年に朝日新聞に連載され大評判になった。

 日清・日露戦争に勝利し、一等国民として鼻高々の気風が蔓延するなか、漱石は、日本人の文明開化なるものが上滑りして地に足がついていないことを深く憂慮していた。西洋の開化は内発的だが日本は外発的である。受け売りでは本物にならないばかりか、激しい変化に翻弄されてしまう。

 内発的とは何か? 自分が自分としてしっかりと確信をもって人生を作っていくことである。世間の表面的な動きにあたふたするのではなく、まず、自分を見つめて、この生き方を突き進むという気概である。

 『それから』の主人公・代助は30歳、財産家の親から生活に困らないだけもらっている。職業に就かず、お手伝いと書生もおり、高等遊民である。人間は元来怠けものである。何か社会のために尽力する生き方をするべきだと思う。が、社会が面白くないから、そんな社会の一コマになるくらいなら、高等遊民しているほうがマシだと代助はうそぶいている。

 代助は、かつて親友の平岡共々に三千代を愛した。平岡が三千代への愛を打ち明けたので寛大さを発揮して2人を夫婦にさせる。大阪へ赴任した平岡が仕事上の失策で数年後帰京した。平岡夫婦の経済的苦境や、冷え込んでいる夫婦仲に接するうちに、代助は三千代への愛に気づく。

 自分が寛大な気分で2人を夫婦にしたのが実はアンコンシャス・ヒポクリット(意識せざる偽善者)であったことを痛切に後悔する。代助は三千代への愛を抑えることができず、三千代に愛を告白する。三千代は代助を愛していたが、捨てられたと思って平岡に嫁いだのであった。代助は平岡に三千代との愛を果たさせてくれと懇願するに至る。物語の流れはこれだけである。

 代助も三千代も、周囲から背徳者だと指弾されることを覚悟したのであり、絶対的な愛を前提すれば、2人がそれを確認した以上、これしか選択はない。代助は家族から勘当される。

 代助が仕事を探しに飛び出す。――仕舞には世の中が真っ赤になった。そうして世の中が代助の頭を中心としてくるりくるりと焔の息を吹いて回転した――という現実との闘いを示唆する結末である。『それから』の、「それから」はさてさてどうなるかという余韻である。

 明治は文明開化の疾風怒濤時代である。長い封建社会の停滞沈滞した気風に支配されていた人々が、突然走り出した社会状況に引きずり回された。文明開化とは、つまるところ、1人ひとりが「いかに生きるべきか」を問われたのであり、極論すれば人心が翻弄されたのに違いない。

 イギリス留学から帰り、もともと気が進まなかった教員生活を辞め、自分としての文学の道を追求せんと志した漱石もまた急激に変化する社会にあって、自分の確固たる生き方を追求しなければならない。その核心は何か? 自分が自分と対峙対決することである。

 世の中が自分の意に沿わぬとしても、いや、そうであれば尚更のこと、社会の1人として、社会に働きかける生き方をしたい。漱石は「文学は吾人のテイスト(taste)の発表である」と主張した。テイストとは趣味である。審美眼、判断力、センスである。自分の作物を通して「人生をいかに生きるべきか」を追求したのである。

 『それから』は、だから、生涯を通じての「それから」である。漱石は未完成の『明暗』(1916)をもって作家生活10年、49歳で亡くなった。短かったが、全身全精力を傾けて人生を駆け抜けた。小説は虚構である。嘘であるが、嘘をもって人生の真実を語ろうとする。真実を抉り出すとき、作物は芸術の高みに上がる。わたしはひさびさ心洗う世界に遊んだ。

 ただいまの世界は、どこを見ても心地よからぬ歪だらけ、ディストピアにわたしたちは暮らしている。わがうちなるアンコンシャス・ヒポクリットを放逐する努力が必要だ。花を愛でるには、わがうちなる心を澄まさなければならない。金権まみれ、それを握り続けるために吐き出される嘘と方便の世間にあって、真っ当に生きるためには、文学の道案内が必要である。