週刊RO通信

大学教育について考えた

NO.1327

 11月1日、萩生田文科相は、英語の大学入学試験を民間業者による7種類から選んで受験する新たな方法について、来年度からの導入を止めて再検討することを発表した。

 11月1日から受験生の共通ID申請が開始される当日の変更で、2日の各社説は、朝日「入試の見直し根底から」、読売「受験生を翻弄した責任は重い」、毎日「遅すぎた判断の罪は重い」、日経「行政の失態」と散々である。

 英語の試験として、従来の「読む」「聞く」に「話す」「書く」を加える。高校生はじめ大学や全国校長会から延期要請が出されていたのを文科省がまったく顧慮せず突っ走ったのだから、厳しく批判されるのは当然だ。

 政治家の失言・放言・暴言は浜の真砂と同じで絶えない。萩生田文科相の「身の丈」発言は本音であり、その「秀逸」さゆえに、不十分な試験制度導入にストップがかかった。政治家の失言の怪我の効能というべきか。

 人づくり革命などと言葉遊びしている政府与党の教育に対する見識が低い。若者の人生がかかっていることに思い及ばない。政治課題について、性根が据わっておらず、真剣さ、本気がないのがよくわかる。

 今回は入学試験制度の問題である。大学に定員がある以上、試験によって選別しなくてはならないが、試験を民間業者に丸投げするような考え方には頭をひねらざるを得ない。

 気になるのは、教育現場である高校や大学の先生の意見に聞く耳持たず(軽視して)、試験の体裁を整えるために奔走する文科省の姿勢である。英語力をつけるのは結構であるが、ならば、なぜ現場の意見を傾聴しないのか。

 愚論かも知れぬがわたしは、大学入試はもっと柔軟にし、卒業までの勉学達成のレベルをしっかり掲げて、それを達成できなければ卒業させない。つまり厳しい入試、ラクな卒業の逆にすることが大事だと思う。

 いい学校に入って、いい会社に入る――大学パスポート論を否定するつもりはない。それ以上に、たまたま先週の本通信で紹介した21歳大学生の人生に対する真剣・真摯な疑問に向き合う大学教育が求められている。

 J・S・ミル(1806~1873)が、セント・アンドルーズ大学名誉学長就任式でおこなった講演を思い出す。ミルは、1865年11月5日に学生投票によって名誉学長に選ばれた。就任式は1867年2月1日であった。

 就任式における60歳のミルの演説は、聴衆の惜しみない称賛の拍手で幕を閉じたと、『ザ・タイムズ』(同2月2日)が報じたそうだ。

 イギリス産業革命時代である。当時、大学改革のキーワードが、説明責任(accountability)や、利害関係者(stakeholder)などの市場経済用語になっており、学び舎の自由がビジネス文化に侵食されていた。

 商業精神絶対主義に支配されない教育が必要である。大学はビジネス要員を作る工場ではない。ミルの講演は2時間から3時間にわたった。核心は、いかにして大学にふさわしい教育をするべきかに尽きた。

 ミルは、「大学の目的は、熟練した法律家、医師、または技術者を養成することではなく、有能で教養ある人間を育成することにある」とした。もちろん、優れた知識・技術を身につけることは価値がある。

 大事なことは、その知識・技術が、単なる商売の道具としてではなく、もっとも賢明に良心的に社会のために駆使されることである。知識・技術を駆使するのは、その人の精神(意志)である。ミルは、「人間は、弁護士、医師、商人、製造業者である以前に、何よりも人間なのです」と喝破した。

 メリトクラシーが大きな顔をしている今日、152年前のこの言葉がまことに清新に感じられるのではあるまいか。

 さらにいう、大切なことは「実在する諸事実をいかにして発見するか。それが真の発見であるか否かを何によって検証するかを学ばねばならない。これこそが一般教育の極致であり、完成である」。ミルの言葉「すべてについて何ごとかを知り、何ごとかについてはすべてを知る人間」(Everything of Something, Something of Everything)も有名である。

 大臣の失言、文科省の失態の彼方にある「大学のあり方について」、性根を入れて考えるべきだと思う。