週刊RO通信

「醜悪な権力」の時代

NO.1213

 「なぜに人類は、真に人間的な状態へ踏み入っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」(『啓蒙の弁証法』1947)という記述が、単なる高邁な問題意識ではなく切実に感じられる。

 サウジアラビアの記者・カショギ氏行方不明事件の解明は、同政府が死亡を認めたことで1つ前進したが、口論、殴り合いの結果の死亡だという説は子供だましにもならない稚拙な言い訳にすぎない。

 トルコが小出しして、報道された内容を考えれば、あたかも1人対1人が殴り合いしたかのような説明は説明になっていない。では、遺体はどこにあるのか。その説明すらないのだからお話にならない。

 酔っ払い同士が正常さを失って乱闘して、我に返ってみれば、相手が死んでいたというようなものではない。政府筋による計画的殺害である。二束三文のミステリー小説よりも格段に程度が低い筋書きである。

 ところが、エジプトとアラブ首長国連邦がただちに「透明さ」「公正さ」を称賛する声明を出す。いかに国同士のお付き合いが大切だとしても、こんなことで幕引きすることができるわけがない。

 中東はつねに世界の火薬庫だといわれてきた。石油がとれるから点火しやすいのではない。もし、現在の表面化していることが各国政府の政治的感覚だとすれば、まとまるものもまとまらないのが当然である。

 アメリカはサウジアラビアへ110億ドル(12兆円)の武器輸出を抱えているから、いうべきことをいわず落着させたいというような観測もある。本当にそうしたいのであれば、ことはサウジアラビアの無法だけに止まらない。

 アメリカは、金儲けのためであれば悪魔とでも握手しつつ取引する国だということになる。マフィア撲滅に闘ったアンタッチャブルの歴史など夢のまた夢だ。歴史を後に戻す愚挙でしかない。

 「国家権力による言論の封殺は言語道断」(日経社説10/21)である。もちろん言論の封殺ももちろんであるが、権力を支配している輩が人々の生殺与奪をしたい放題することが言語道断なのである。

 国家主義は、社会において国家を第一義と考え、その権威と意思に絶対優位を認める立場である。個人主義は、個人の自由と尊厳に立ち、社会や集団は個人の集合体だと考える。

 国家主義に立てば、国家に対する個人は微小である。国家という大の虫のために個人という微小の虫は唯々諾々従うべきだという考えになる。滅私奉公という言葉にロマンを感ずる人が少なくないのも事実である。

 しかし、たまたま権力を支配している輩が、国家のためという口実によって権力を恣意的に運用することは避けがたい。権力支配者が、滅私奉公、わが身を顧みず率先垂範、身を挺して闘うような事例は見当たらない。

 アウトロー世界でも、戦争でも、因果を含められて鉄砲玉になるのは圧倒的に下っ端が多い。どなたもご存知のように、権力の中心に近い者たちのために権力が駆使されるのは古今東西の歴史が示す通りである。

 封建時代、わが国の庶民はひたすらお上を敬遠した。泣く子と地頭には勝てぬ。道理を主張しても通らないから、微小な個人としては、「敬遠」策を処世術としたのである。

 人々が権力を敬遠している限りにおいて、権力支配者たちは安穏である。安穏に味を占めてのぼせ上がり、増長し、ますます権力の魔力に酔いしれる。遠い中東の話ではない。この数年の、わが国での権力者事情である。

 「権力は腐敗する」というが、その前にもう1つ重大な表現をしなければならない。すなわち「権力は暴力である」。暴力である権力は、その本性がアウトローであるといわねばならない。

 権力が大衆のものであるときデモクラシーである。しかし、デモクラシー(制度)であっても、権力が露骨に姿を現すとき、その社会はアウトローである。アウトロー社会を造ってきたのは権力支配層である。

 「明治150年」を真剣真摯に考えるならば、大きな「負の遺産」を無視して、調子のいいことばかりいうことはできない。なんとなれば明治のもっとも醜悪な部分が、今日的アウトロー社会と重なっているからである。