週刊RO通信

嘘をつく人

NO.1260

 人が生涯を通して一切嘘と無縁に暮らせるであろうか? ここでいう人は大人であり、幼い子供や作家が豊かな想像力を駆使して生み出す作り話ではない。作家が嘘を書かなくなったら、文学作品は地上から消えてしまう。

 幼い子供は想像力に突き動かされて、あることないこと、あるいは、ないことないことを話すものだ。その大方は想像の産物だということを理解しているから、とりわけ親は面白がってそれを楽しむ。

 子供の作り話は作家の小説に似ている。作家は小説という嘘を通して、何らかの真実を語ろうとする。あるいはファンタジーの世界へ読者を誘うわけだ。エンターテイメントともなれば嘘抜きでは成り立たない。

 釣り師の嘘は大っぴらに許される。30センチほどの魚を釣り損ねて、1メートルあったのだと吹聴しても、周辺から嘘つき呼ばわりされることはまずなかろう。ただし、ほら吹きの尊称をちょうだいする覚悟は必要だ。

 白を黒、黒を白という類の嘘は具合がわるい。もっとも発想法としては、白黒逆転がオツムを柔軟にする入口になることもある。もちろん、思索が結実してきちんと合理的な説明が成立しなければダメである。

 予想だとか憶測というものは、嘘と隣り合わせになる場合が多い。予想・憶測する人の期待や願望に少なからず左右される。競馬の予想屋の主張が外れても袋叩きになることはない。予想屋もまた嘘を許容されているらしい。

 政治家の公約を全面的に信用する人は少ない。公約は公衆に対する約束であるが、公約の前提条件が完璧だなんてことはないから、不可抗力でごめんなさいという次第である。

 嘘をつかなくても嘘つきにされる場合もある。高校時代に5人の仲良しがいて、4人が喫煙の現場を教師に押さえられた。1人はもともと喫煙していないのだが、教師は「お前は要領がいい」と毒づいた。

 本人は「喫っていません」と真実を述べたのだが、それが「嘘」であり、往生際がわるい。仲間を見捨てて自分だけ無実を主張するのは「男らしくない」と罵られる。真実を語っても救われなかった。

 嘘をつくというのは、人に知らせなければならない真実を隠すことだというが、真実を語っているのに嘘つきのレッテルを貼られるのだから、何とも不条理である。嘘つき呼ばわりする教師が嘘をついているわけだ。

 嘘と真実というものを見極めるのはまことに難しい。安倍氏が、周辺のさまざまな証拠を固められても、なおかつ突っぱね続けるのは、「動かぬ証拠」が出ない限り逃げおおせると踏んでいるからであろう。

 しかし、一連の答弁なるものは全然質問に答えてないのだから、答弁していない。実質は答弁拒否、黙秘権行使と変わらない。それ自体が、自己に不利益だということを示しているから、客観的には嘘をついているのと等しい。

 ここで問題となるのは、煙草を喫ったか、そうでなかったかではない。行政のトップが個人的利害のために国政を恣意的に運用したのではないのかという大きな問題なのであるから、きちんと対応するのが当たり前である。

 デモクラシーに多大な貢献をしたルソー(1712~1778)のエピソードがある。彼が16歳のとき、イタリアのトリノの貴族邸に雇われた。不幸のどさくさの最中、リボンを盗み、見つかった。自分の仕業を、やはり雇われていた同輩の少女マリオンになすりつけた。

 「その追憶は一生わたしを苦しめ、老年になっても悲しませる」。60余年にわたって、いや、亡くなるまで、ルソーは自分の嘘に苦しんだ。

 安倍氏は森友・加計事件の中心人物である。何となれば、氏が存在しなければ官僚諸君の大騒動は絶対に発生しないからだ。では、なにゆえ氏は官僚諸君になすりつけて平然としていられるのか? 国家主義者だからである。

 いわく、「わたしは天下国家のために不可欠の人間である。いかに追い詰められようと、天下国家のために挺身することに比べれば枝葉末節の話である。わたしは、わたし個人ではなく国のためのわたしなのである」

 「You are a liar」と言われることは、人としては最大の侮辱である。しかし、氏は国家主義者であるから、並みの人ではなく国である。かくして平然としている次第だ。トランプ氏もまた右に同じだ。