週刊RO通信

幻の「人生100年」

NO.1245

 某新聞の読者欄に23歳の女性が「時間潰しにスマホを使っていて眼が悪くなるのが怖くなり、ガラケーに変えた。電車内で高校生に笑われたけれど、ガラケーで行くのだ」(要旨)という投稿をされていた。

 眼によろしくないのはパソコンも同じで、わたしは自分なりに適宜休憩するとか、電車内で眠らない主義なのだができるだけ眼を閉じるとか、目薬を意識して使うようにしている。古い車は重々配慮せねばなりません。

 わたしが23歳当時はもちろんパソコンの影も形もないが、それ以上に自分の身体を大切に扱うなど全然考えたことがない。病気したときに少し健康について考えるという程度の野放図な生き方をやってきた。

 昨今「人生100年」が喧伝される。まあ、アヒルに言われたくはないけれども、仮に100年生きたとしても「長いようで実は短い」のが人生だと思う。肉体面・金銭面もではあるが、いまの「ひととき」を大切にしたい。

 ひょいと考える。来るべき時が来たとする。ひたすら突っ走っていただけで顧みるわが人生らしきなにものもないとすればどんなものだろうか? 「長い生涯を一瞬にして駆け抜けた」と自慢する手もなくはないけれど。

 このところ陸路の旅を続けている。新幹線の旅の心象がいちばん殺風景だ。ほとんど心が動くものがない。つまり、運ばれていく荷物みたいなものでドラマ性が少ない。初めて列車に乗って窓外に心を奪われたのは昔話だ。

 大概は読書するが、眼の疲労を慮ってかつてのように猛烈にはやらない。ときには引っかかった1センテンスについて、眼を閉じて、あれやこれや考える。意外と新鮮な方法で、わたしは気に入っている。

 逆にいえば、馬力に任せて読みまくっていたときには、じっくりと考えず、ひたすら文字を追っていただけではなかったのか。思い当る。ある本を何度読んでも新発見がある。どうも精読していなかったようだ。

 もちろん本が変化するわけはない。一方、わたし自身が以前読んでいたときよりも変化しているのは事実である。たとえば『思想のドラマトゥルギー』(平凡社)は林達夫さんと久野収さんの洒脱な対談の本である。たまたま書店の棚で見つけたのが1993年8月22日であった。

 やるせなかったのは、お2人の洒脱さはわかるが、引用される本がざっと1,000冊。読んだのも知っているのもあるが圧倒的に知らない。

 中学2年生のとき従来考えていた進路を変更して、工業高校機械科に入った。まるで面白くない授業に欠伸する反面、テニスに打ち込む高校生活で教科書以外の本を読んだ記憶がない。

 なんとか格好つけて卒業して三菱電機へ入社、せっかく機械技術最先端職場に配属され、尊敬する上司先輩に巡り合ったものの、この道一筋という根性には到底なり得ず、たまたま組合活動にのめり込んだ。

 直接的に「人」と「組織」に関わる領域で、かつてめざした進路とかなり似ている面がある。1982年に37歳で同社を退職するまで、一直線に組合活動を続けた。この期間は自己研鑚=仕事に発揮という綱渡りだった。

 その後、独立開業してえっちらおっちら、偶然出会った『思想のドラマトゥルギー』を読みつつ、考えつつ、かつての尊敬する上司・先輩の言葉が蘇った。「本をお読み」「古典を読みなさい」。

 あれから四半世紀、なにしろ真っ当な勉強の方法がいまだ身につかない。知識が増えるだけではダメで、ものごとをじっくり「考える」べしという程度はなんとなくわかってきたが、これでは1000年生きてもあかんなあ。

 新聞を読む人は少ないらしい。スマホやテレビで情報を押さえている。たしかに新聞の文章はコクが薄い。考える材料として全面依存はできない。いや、情報を手にすればするほど自分の「判断能力」が大事だ。

 メディアから判断能力までも調達してもらうわけにはいかない。わたしが考えるしかない。考えるために依拠するものは、質の高い本(たとえば古典)を読むことが結局近道のように思う。

 なにしろそこには人類が善戦健闘(悪戦苦闘)して辿りついた「人生の様相・知見」がふんだんに盛り込まれている。古典的素養のまるでない政治を批判する代わりに、今回は未熟な1人旅の告白をいたしました。