週刊RO通信

年越し蕎麦を食べても続く

NO.1230

 年が改まれば、過ぎ去った話はきれいさっぱり捨てて、心機一転、難問奇問に立ち向かいましょう、といいたいのは山々だけれど、その前に、然るべき立場にある皆さまには、きちんとけじめをつけてほしい。

 「籠池先生の教育に対する熱き思いに感銘を受け、このたび名誉校長に就任させていただきました。優れた道徳教育を基として日本人としての誇りをもつ、芯の通った子どもを育てます」云々。

 生々流転、うたた心というべきか、感銘与えた先生ご夫妻は接見禁止の塀の中。片や、「1年いろいろあったけれど、がんばってよかった」とかなんとか、昔話をしておられた。なるほど知らぬ顔の半兵衛を貫いた。

 政府は、国有地売買の手続きに瑕疵がないという取り繕いをしているが、手続きに盛り込む中身が大インチキである。インチキを風呂敷に包んだとて、手品でもあるまいし、黒が白に変化するわけがない。

 社会通念では、これを汚職だとか、背任行為だと呼ぶ。問題は、積極的に個人的利得を狙ったと思えないお役人衆がチームを組んで、なにゆえ、インチキを風呂敷に包むような危ない橋を渡ったのか?

 ドラマを見ている聴衆は、かの名誉校長さまが、専属秘書になにごとかをお命じになって、秘書が動いて、お役人チームの利口者が筋書き(インチキ)を作り、それを瑕疵のない? 手続という風呂敷に包んだと解釈する。

 名誉校長さまはチマチマした利得やなにかにはトンと興味がなく、ひたすら熱き思いを受けた感銘に基づいて、「なんとかしてあげて」とかなんとか、軽い気持ちでお声を掛けられたとする。

 お声を掛けられたお役人にすれば、なにしろ名誉校長さまの連れ合いは行政府の長たるやんごとなき人であるから、徒やおろそかに取り扱うわけにはまいらない。名誉校長さまの未必の故意がないとはいえない。

 百歩譲って、こういうのを脇が甘いというにしても、いや、それならば尚更のこと、世間をお騒がせした反省に立って、正々堂々、公開の場で事実関係を表明するべきである。それが「芯の通った」大人というものだ。

 モリ蕎麦は脇が甘いとしても、カケ蕎麦のほうはいささか趣が違う。よんどころないお方とカケ主人の関係は浅くない。安倍氏が今年1月20日にはじめて加計学園だと知ったと語ったのは、どうせつくなら大嘘の類だ。

 モリとカケと比較すると、当然ながらカケのほうが、はるかに力が入っている。お役人衆の動きからして、前川前文科次官の証言のほうに軍配を上げるのは、極めて常識的であろう。

 ところで、安倍氏は一連の答弁において、たびたび「李下に冠を正さず」をまくら言葉として使った。「瓜田に履を入れず、李下に冠を正さず」(古楽府 君子行)は嫌疑を避けるたとえである。

 その前に、「君子は未然に防ぐ」——君子は事のまだ起こらない前に、起こるべき弊害を防ぐ、という言葉がある。李下に冠を正したと見られている当人が使えるような言葉ではない。(ということもわからないらしい)

 2月17日に、「自分(並びに妻)が関わっていれば辞職する」と啖呵を切った。それを前提すれば、関わっていれば辞職せねばならない。以後は、なにがなんでも一切関わっていないという答弁に転換した。

 この1年、野党議員に対する安倍氏の答弁は、質問の意味を真っ当に捉えず、尋ねてもいないことを喋るケースが多かった。相手の言い分を無視して自分の言い分だけを喋るのであれば質問答弁関係が成立しない。

 問題は、やりとりとして成立していなくても審議した時間として算定するのであるから、これでは、言論の府としての議会が機能していないのと等しい。議会会期も短かったが、中身のないこと夥しい。

 安倍氏は4月5日、新人公務員に向かって「公務員はいささかの甘えも許されない」と演説した。自分は公務員ではないのか。かくして、安倍氏らの讃える道徳教育とは品性下劣のすすめにみえてくる。

 高浜虚子は「去年今年貫く棒のようなもの」と詠んだ。年越し蕎麦を食べてもお仕舞ではない。人格不誠実、公私混同、多数派横暴の政治家に対する追及を、議会のみならず国中で貫こう。それ以外に政界浄化はできない。