論 考

インテリジェンスの意義

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 正倉院の写字に携わっていたのは、当時としてはまさしく最高のインテリであるが、身分は奴隷であったという。知性の人であっても、自由の民ではなかった。

 そういえば、前6世紀の人とされる作家イソップも奴隷であり、中世では、奴隷が作った物語を子供に読まさない貴族がいたという話もある。

 時代がずっと下がって、識字率が上がり、高学歴者が増えても、世界は相変わらず混乱・混沌で破滅と隣り合わせである。なぜか?

 人々が暮らす社会は大昔から一貫して権力による支配が柱である。いわば、知性が権力の支配下にあり、知性が自ら自由を求めない限り、結果は権力に従うしかない。きびしくいえば、知性的奴隷が主流なのではないだろうか。

 ホガード(1918~2010)は、『読み書き能力の効用』(1982)で、イギリスでは19世紀に識字率が大きく向上したが、活発だった労働運動が後退した。文字を知った結果、労働者は権力支配を受容しやすくなったのだと、皮肉な指摘をしている。

 勉強しても、自身の頭で思索しなければ、なにものかに飼育されるのと同じだというのである。

 先日、映画『オッペンハイマー』について、小文を提供した。彼のような超インテリジェンスの人でも、「なにを」「なんのために」おこなうのか考えなければ、巨視的に社会を後退させてしまうという、典型的な事例である。

 広島、長崎の惨状が描かれていないという批判があるらしいが、製作者・監督が描きたかったのは、人間が人間であるとはどういうことか、1人の科学者を通して深く考えようという意図であったはずだ。

 それが、「あやまちはくりかえしません」という言葉の、異なる表現であろう。

 そして、これこそ、わたしたちが生涯勉強し続けるインテリジェンスの意義に違いない。