論 考

テヘランからの訃報 イランの多様性

筆者 高井潔司(たかい・きよし)

 私にとって最初の海外赴任地だった読売新聞のテヘラン支局から訃報が届いた。私が駐在した1982年から84年当時の助手のシャリフ・イマーム=ジョメ氏(72歳)が心不全で亡くなったという知らせだった。彼は私が帰任した後も40年以上にわたって読売の支局で働いてくれていた。2015年、再婚したと30歳年下の女性を連れて新婚旅行に日本を訪れ、わが家にも逗留した。その後、長女を設けた。まだ小学校にも入っていない娘を残しての死は、彼にとっては無念であったに違いない。

 彼はアメリカ留学組で、カリフォルニア州立大学を卒業後、テキサス州立大学院で土木建築の修士号も取ったというエリートだった。1978年イラン革命が勃発、彼は米人のガールフレンドの激励もあって革命に参加するために帰国した。彼の苗字であるイマーム=ジョメは金曜礼拝指導者という意味で、先祖は代々イスラム教の高位の僧侶であったに違いない。金曜礼拝はキリスト教の日曜礼拝にあたる重要なセレモニーである。しかし、彼自身はイスラム教に全く興味がなく、むしろマルクス主義に傾倒していたという。

 イラン革命は当初、反パーレビ国王体制ということで、左のマルクス主義者から、右のイスラム保守主義者まで連帯して戦った革命だった。革命政権が成立し、彼も当初は建設省の幹部に登用された。だが、政権が徐々にイスラム化してくると、金曜礼拝指導者の家柄出身でありながら、お祈りの習慣も、仕方もわからぬ彼はその部署にいづらくなり、退職。アメリカにも戻れぬあてのない生活の中で、友人の紹介で読売支局の門をたたいたという。

 助手の主な仕事は通訳である。イラン革命によって中東報道においてイランは重要なニュースの現場となったが、当時まだ日本の新聞社にペルシャ語のできる記者はいなかった。したがって、現場での通訳だけでなく、現地新聞、テレビニュースの翻訳も重要な仕事だった。ペルシャ語の新聞、テレビを見てもこちらはそれこそチンプンカンプンである。全部翻訳してもらうには時間的に無理だ。助手が、これは日本の新聞に紹介する価値のあるニュースかどうか、選択して、英語に翻訳してもらう必要がある。

 しかし、私が赴任した時、彼は勤務し始めてまだ2週間。私の前任者は「申し訳ないが、一から教育してください」と言い残して帰国した。と言われても、こちらは右も左もわからない土地で初めての特派員生活、まず生活に慣れるところからのスタートだ。しかし、ニュースは待ってくれない、見様見真似の覚束無い報道活動に追われた。こうして1、2か月。最低限の仕事はしてくれるが、どうも彼は積極的ではなく、むしろおどおどした態度で私に接していた。

 そんなある日、ダウンタウンにある国際電話局のビル前で大きな爆弾テロ事件があり、80人前後の死者が出た。国際電話局も被害を受け、国際電話やテレックスがストップし、東京本社への原稿の送稿はおろか連絡さえつかない事態となった。当時、国際電話は直通ではなく、国際電話局に電話して、東京の何番に電話をつないでと申し込み、いったん電話を置いて電話局からの交換を待つという仕組みだった。その申し込み電話さえ遮断されてしまった。

 事件発生から、ともかく一刻も早く東京本社に連絡をとることが毎日の仕事になった。1時間おきに国際電話局に電話を入れるが、正規の呼び出し音さえない。そうこうして3日目の深夜、呼び出し音がなり、職員が出たが、ペルシャ語で何を言っているのか、私にはわからない。だが、これは何か状況が変わったにちがいないと、深夜だったが、かの助手に電話を入れ、支局に来てくれと頼んだ。

 彼が支局に来て電話局に連絡してみると、ダウンタウンにある一部の国内電話局に行けば、欧米向けの国際電話がつながるという。そこで2人でこの電話局を探し求めた。ようやく電話局を見つけたが、30分間という制限付きだった。

 そこで、私はローマ支局とニューヨーク支局にそれぞれ電話を入れ、テヘランの状況を説明し、原稿の前半をローマへ、後半はニューヨークに送り、本社で合体して掲載してもらうことにした。

 爆弾テロの発生はすでに日本でも報道されていた。現地からの私の詳報は3日遅れの掲載となった。原稿の頭には「延着」と異例の但し書きがついていた。原稿を送り終わって、電話局から外に出て見たら、すでに空が明るくなり始めていた。

 こんな時間までありがとうと声を掛けたら、「ミスタータカイ、あなたはなぜこんな時間までそう熱心に仕事をするのか」と質問して来た。こんなことは社会部記者でもあった私には当たり前のことだが、そうか、ジャーナリズムの世界をほとんど知らない彼にしてみると全く理解できなのだと思い直し、日本のジャーナリズムの役割、報道競争の激しさ、日本にとってのイランの重要性、イラン情勢を報じることの意味などを懇々と説明した。彼は「そんなこと初めて聞いた」と眼を丸くして聞いていた。そしてこう言った。

 「あなたの前任者はあれこれと仕事を命じたが、それがどんな風に役立ったのか、全く説明してくれなかった。出張先でも食事を共にせず、これまで何人も助手を首にしてきた。私もいつまで続くのか心配ばかりしていた。きょう初めて自分の仕事に意味がわかった。これからは本気で協力するよ」

 それから私は毎日、日本から数日遅れで到着する新聞を広げて、彼が翻訳してくれたニュースが紙面でどのように使われたか、なぜそのような扱いになったのか、私がイランのどんなニュースに興味を持っているのかを説明した。昼ご飯は毎日、支局のお手伝いさんのおばあさんが作ってくれるイラン飯を一緒に食べた。すっかり打ち解けた彼は、そのうち今晩は友達の家でホームパーティがあるので一緒に行かないかと声を掛けるようになった。フランス留学組の友人、郊外の農村に住む友人など色んな人を紹介してくれた。まだ幼稚園生だった娘と妻も一緒で、娘は決まってイラン人に「可愛い」とほっぺたをつねられ、困惑していた。われわれもわが家で開くパーティに彼らを招待した。

 ある時、パリから先輩記者が出張してきたので、フランス留学組の友人のパーティに案内したら、たいへんうらやましがられた。「パリでフランス人の家に招待されるなんてほとんどないもの」と。

 こうした友人たちとの付き合いの中で、女性のヒジャブ(スカーフ)や禁酒などの厳しいイスラム教の戒律で表では見られない素顔のイランを、見ることができた。欧米の新聞、テレビで報じられるイスラム過激派一色ではないイランの多様な社会を知った。むしろ欧米の厳しいイラン制裁が過激派を強くさせている面もあると感じた。

 シャリフは当初、いやがっていたイスラム教のモスク取材にも同行するようになったし、日本では知られていなかったバザール(市場)の‟探検“取材からアヘン窟の取材までアレンジしてくれた。

 2015年新婚旅行で約30年ぶりに東京で再会したが、酒を酌み交わしながら彼がつぶやいたことまだ耳に残っている。

 「長い間、読売の支局で働いてきたが、あなたほど私の友人と友達になった人はいなかった。最近の記者はホームパーティに誘っても興味を示さない」

 当時、テヘランに駐在していた日本の他社の特派員にも訃報を転送したが、こんな返信があった。

 「連絡を有り難うございます。シャリフはまさに我々がテヘラン特派員になったときから読売新聞で働きだしたわけで、彼のジャーナリストとしての歩みは我々と、働く場所は違っても、重なります。改めて40余年の歳月と、テヘラン時代が思い出されます。シャリフのような人間がいたからイランが面白かったし、イラン社会の深みを感じられたし、それゆえに今もイランを批判する人には「いずれ自らの力で軌道修正する国」と擁護しています」

 海外特派員にとって、助手は単なる使用人ではない。現地を知る貴重な人材であり、彼らをやる気にさせることが特派員の一番の仕事であるとつくづく感じる。シャリフジャン(さん)、安らにお眠り下さい。ありがとう。