週刊RO通信

派閥=党内党=徒党

NO.1546

 自民党の派閥とは、よくもわるくも自民党の強さ・弱さ、議員の価値観・体質そのものである。政治とカネの問題が、いつまでたっても解決されないという、人々の憤り、やりきれなさは、まったくその通りである。

 ただし、はじめから議員諸氏の価値観・体質がカネへの執着心にあるとすれば、甘言に釣られたのか、欺かれたのかはともかくとして、そのような人々を政治家に選んでしまったことが、政治とカネの根本的原因なのである。

 政治家自身に派閥問題を解決するように期待するのは、麗しい性善説的見識であっても、問題解決への合理的な道筋とはいえない。だから、派閥解散をしても、「人は集まる」と語った二階氏はなかなか意味深長な、というか実に正直にそんなことができるものかと本音を吐露している。

 二階氏の念頭には(わたしとは異なる立場からではあるが)、自民党という政党、その派閥が、いかなる人々によって担われているか。議員の価値観・体質を前提して語っていると思われる。この点、氏はリアリズムである。

 善男善女においては、やはり、政治が崇高なものだという理想論がある。これは「意識せざる意識」でもある。だから、裏金作りに精出す紳士淑女の姿を見て、見たくもないものを見たときと同じ大きな失望を感ずる。国家・国民のために心血を注ぐという自己宣伝に裏切られたと思う。

 いわゆる普通の人々は、心に秘することがあっても、なかなか他人や社会のために尽力したと納得できる心理状態に到達できない。――わたしは、生き方として、小さな善意を積み重ねる人間になります――と、人々の前で話せるものではない。意識せざる羞恥心は美徳の片鱗だ。

 政治家は、よき行動をやりますと拡声器で声を枯らすのである。気のいい人々は、それに対して共感し期待する。自分とは違う立派な人だと考えるからこそ、清き一票を投ずるわけだ。

 本題に入ろう。派閥とはなにか? ある集団の内部において、なんらかの手づる(出身、主義、主張、特権、利益など)によって結び付いた仲間である。ある集団(政党)自体が、政治的綱領によっているから、それだけでよさそうなものだが、さらに色濃いつながりが派閥ということになる。

 政治家一人ひとりの格(?)は、一般に当選回数で決まる。大変な選挙を通過して当選するのだから、当選回数はたしかに議員力の表徴ではある。

 派閥に入ればさらに派閥力が加わる。派閥のなかで、周囲に認められるのは、党全体で認められるよりも早いし、派閥での認知が党全体における認知にもつながる。有力な(党内発言力がある)政治家の派閥につけば、政治活動の自由度がさらに拡大するであろう。羽振りがよくなる。

 有力な政治家のもとに人は集まる。派閥事体が大きくなれば、党全体の意思決定におけるリーダーシップが取れる。憧れの官位を手にするのも有力派閥のほうがはるかに多い。官僚もまた、議員が派閥で風向きがよいかどうかを見る。つまり、派閥は権力への近道である。

 自民党は政権党を長くやってきた。その根源的エネルギーが派閥同士の競争力にある。党員は党の指示で行動するが、派閥力を背景に議員が自発的積極的な行動力を発揮すれば、派閥は党活動の強いエネルギー源になる。

 派閥はまた、有力な新人をどんどん確保する。派閥もまたリクルート活動が活発でなければ衰退する。こっちの水は甘いぞ、という戦術を派閥活動に組み込む必要がある。派閥パーティの稼ぎのキックバックは、まことにわかりやすく、かつ派閥のありがたみを頭からシッポまでしみ込ませる。

 ともすれば教条的・静態的に流れやすい政党活動にあって、派閥は、積極的・行動的な力を発揮したきたのであって、各派閥の競合自体が自民党の政権獲得・維持力を構成してきた。派閥は、党内党である。しかも、その党内党は出来上がった政党ではなく、覇権をめざす「徒党」としての清新さ、若々しさをつねに確保し続けてきた。

 自民党から派閥を除けば自民党は力を失う。この程度の理屈は、議員諸氏は先刻ご承知だと思う。にもかかわらずみなさま、裏金作りという低次元に満足してきた。その志たるや政治家ではない。政治でひと儲けを企てる政治商売人でしかない。だから、わたしは自民党を批判する。