論 考

more than words-を聴きながら

筆者 渡邊隆之(わたなべ・たかゆき)

 父が逝き、独りになった筆者は、最近夜になると“羊文学”を聴いている。“羊文学”とは日本の3人組のオルタナティブ・ロックバンドの名前である。バンド名や楽曲については以前から知っていたが、ここ数年アニメとのタイアップで認知度が上がったらしい。特に「more  than  words」という楽曲の塩塚モエカさんの歌詞が耳にひっかかり何度も繰り返し聴いている。

 「いつからか正解を選ぶのが楽になって

本音言う無邪気なペース適当に誤魔化している」

 「いつからか失敗を避けるのにむきになって

本当に欲しいもの諦めて、何がしたいか

見えなくて見過ごして、絶望だけ得意になって

それをもう手遅れと決めるにはちょっと早いね 」

 この楽曲の展開は鬱屈した気持ちの掃き出しだけで終わらない。この後、前衛的な言葉が次々と繰り出される。

 「この先は何一つ譲れない」「どんな暗闇だって照らすライト」「転んで泥だらけも仕方ない」「損得見てちゃ何も生まれない」「いつもただ瞬間に賭けてたい」「言い訳はもういらない」などである。

 いくら頑張りもがいても、報われない鬱屈した空気を感じる。ロシアによるウクライナ侵攻やイスラエルのガザ地区攻撃など、人間の尊厳が軽く扱われ、無辜の民の命が奪われている。実効的な平和的解決手段が進まず、国連も機能不全、国際世論の無力さを痛感する。各国のリーダーが、中村哲医師のように人々の気持ちに寄り添うような人格であったら、どれだけ豊かで実り多い世界になるかと考えたりもする。

 消去法ながら優れているとされる民主主義も形骸化し「民主主義もどき」がまかり通っている。年明けは各業界で賀詞交歓会が行われ、特に、選挙が多い年は国会議員やその秘書が各会に顔を出しビールを注いで回る。「皆さんの声を聞かせてもらって」ということだが、単刀直入に言えばただ顔を覚えてもらうために宴会をはしごしているに過ぎない。

 かつて田中角栄氏は選挙演説の際、聴衆から厳しい質問を受け、それにより己が鍛えられたと話したという。現在そのような手法をとっているのは支持に賛否があるにせよ山本太郎氏くらいしか思いつかない。安倍晋三氏や岸田首相のように国会をのらりくらりとかわし、ただ原稿を棒読みする記者会見を頻繁に行うのは「ことば」を最大の手段にする代議士としてはいかがなものか。

 賀詞交換会の際にとある自民党議員秘書の話で嫌悪感を抱いたのは、「民主主義は多数決だから」という言葉だった。

 民主主義とは治者と被治者の自同性をいい、治者と被治者の入れ替わりを予定している。そのため少数意見にも耳を傾け、手続きにも公正さと透明性が要求されるのだ。

 「多数決で勝てば何をやってもよい」という発想であれば、民主主義が個人の尊厳確保のための手段という前提と抵触することになるし、治者または議員の固定化を生む。そして政策を練るためでなく、次の選挙で勝つためだけに金を集めカルト教団との癒着を図るというのではいったい誰のための何の活動なのだろうか。

 確かに政党はただの私的結社である。だから、活動費は自らで賄うという理屈はわかるが、政党の活動は公的な側面もある。

 政治とカネの問題が起きたリクルート事件等を契機に、企業等団体献金の禁止を名目に政党助成金が交付されることになったはずだ。しかし、政治改革の抜け道を増やしてきたのは自民党自身である。

 私たちは何度も騙されてきた。岸田首相が口にする「政治への信頼回復」は理解不可能である。国民の声に耳を傾けるとした、あの岸田ノートを覗いてみたいものだ。

 誰もが幸福になるために日々もがいている。しかし、うまくいかないのは政財官の既得権を握っている人たちの間で利益がぐるぐる回り、労働者を消耗品扱いしているからではないか。

 それでは国内消費も人口もGDPも増えない。最近は賃金上昇を声にする経営者も増えてきたが、労働者の人権を考慮してだろうか。優秀な人材を確保し社業の業績を上げるという自己目的に終始しているように聴こえる。国全体のインフラ強化や社会貢献する本気があるのか。

 政府与党は「国民の生命・身体・財産を守る」と叫ぶが「どうやって」の部分がない。長期的ビジョンがない。それはそうであろう。次の選挙に勝つことと資金作りに必死なのだから。しかし、それでは駄目なのである。

 国民一人ひとりが自分なりの考えを持ち、日々の生活や夢の実現を阻害するルールを変更するために声をあげたい。本当の調和とは意見がぶつかり合うことだ。多くの人が一度きりの人生を豊かに輝けるよう、この一瞬一瞬を自らさらけ出して前に進みたい。

 深夜に楽曲を聴きながらそんな想いを巡らせている。