週刊RO通信

権力は何のために?

NO.1544

 岸田氏は、首相の権力に憧れて、それの獲得をめざして政治家活動を過ごしてきたそうだ。こんな話を思い出す。

 学生が農業を改革したいので農業大臣になりたいという。新渡戸稲造(1862~1933)は、「農業をやりたのなら、農業技術者になれ」と諭した。もちろん、農業大臣が農業の役に立たないというのではない。なにしろ自然相手の農業において、技術を確立していくことは非常な挑戦である。大臣は、いわばコーディネーターであり、指揮者である。大臣候補が輩出しても農業が隆盛するわけではない。

 籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人―という戯れ言葉があるが、担ぐ人や草鞋作りする人がいなければ、籠は持ち上がらない。最近、まだ海のものか山のものかわからない新人政治家が人前で「総理をめざす」と語るなどは、まったくものごとを本気で考えているかどうか疑問である。

 ところで勤め人になれば、仕事ができるようになろうとか、他者の役に立つ人材たりたいと考える。このような考え方は立派で上等である。しかし、現実の組織はどうもそれを受け入れていないみたいである。

 社内政治を警戒する人は功を焦らないほうが得だと考える。なぜかというと、身近な管理職が、仕事ができるからポストに就いていると思えない。

 訳知りはいう、出世するという目標と、いい仕事ができる人になろうという目標は別物である。いい仕事ができるようになったからといって然るべく出世する保証はない。目標達成の最短距離は、出世すること、それ自体である。いい仕事ができるようになるというのは、いわば迂回路である。

 というか、仕事はできるのだが、下手をすると墓穴を掘る。仕事ができる人は、それだけで十分他者の役にも立っているはずだが、他者なる存在がそのように考えてくれない。同輩の1人がジャンジャン仕事をして目立つと、相対的に自分の立場が悪くなる。A君はあんなにしっかり仕事をするのに、キミはどうしてそんな程度なんだ、というわけである。社会において人は、つねに相対的存在である。相対的に持ち上げられるのはよいが、ダメ印を押されたのではたまらない。かくして、仕事ができる人は嫌われる!

 そこで、まことに大昔から「出過ぎた杭は打たれる」という。なに、もっと頑張って打てなくなるほどに出過ぎればいいんだ、という元気な意見もある。しかし、相対元気文化が染みついた組織においては、こんどは足元を揺さぶられる。出過ぎ過ぎた杭は倒れるという話になる。

 昨今、そんなに厄介な目をしてわざわざ損する手はない、と考える人が多数派だというのが世間のもっぱらの評判である。そこから引き出される教訓は「なにもしないほうが得だ」という次第になる。

 こうなれば、組織は組織維持が目的化して発展しない。漫画タッチの話ではあるが、笑ってはいられない。いまの日本経済を担う産業界の活力がしっかりしているだろうか? わたしはとっくに産業界からこぼれているのだが、いろいろひいき目にみても、自分が体験した時代と比較して、活力が衰退しているとしかみえない。

 日々の仕事が無難にこなされていることと、森羅万象ことごとく変化して止まらない全体状況の中で、必要な思索・行動をすることとは全然別物である。いまの各界リーダーは、組織を円滑に経営することに長けているが、果たして、組織の人々の総合力を高めることができているだろうか?

 組織を動かすのが権力であるが、組織を円滑に経営するだけであれば権力は不要である。はやくいえば、1つの製品の生産システムが無難に動けばいいのは、その製品限りの話である。次なる製品を開拓しなければ、遠からずしてじり貧になる。日本の産業界は目下、その典型的事例を提示している。

 権力者のリーダーシップというのは、プーチンのように人々を支配して物言わぬ人形にしてしまうことではない。組織は、メンバーたる人々を手足にするのが目的ではない。メンバー各人が、手足として所与の作業に沈没するのではなく、生き生きした人間として、その知恵や力を存分に発揮してもらうように経営するのが目的である。それに気づかぬような人間が組織の権力を握ると、組織はどんどん状況対応力を失って陥没するのみである。