論 考

権力の走狗ではいけない

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 戦前、公務員は「おくれず・やすまず・はたからず」といわれた。結構なご身分でうらやましいという、やっかみ半分の表現である。

 戦後、勤め人世界では、「仕事は盗め」(先輩の背中を見て)、「大きな顔をする部下を育てよ」という管理者間の言葉もあった。これは、決められた職分の仕事をこなすだけではなく、先輩上司の仕事をやるように積極性を育て、裁量を大きくせよという意味だ。

 これらは、戦後民主主義がいちばんよかった! 時代を反映している。

 しばらくたつと、「出る杭は打たれる」という。がんばってがんがんやるのはいいのだが、上や横が迷惑がる。いつの間にか、功を焦らず、なにもしないのがいちばんよろしい。さえない社内政治時代というわけだ。

 ところで、大川原化工機事件は、警察・検察が猛然と突っ走ったもので、存在しない犯罪をでっち上げ、重病人の保釈、治療も認めず、死期を早めてしまった。しかし、どうも、警察・検察・裁判所の反省の声が聞こえない。

 仲間内の失敗は、「みざる・いわざる・きかざる」の気風が強く支配しているらしい。

 これを民間企業でいえば、インチキ商品をでっち上げて、顧客に大変な被害を与え、会社にもとんでもない信用失墜を与えたのであるが、それにしては大反省が見られない。裁判で勝利したとしても、民間人としてはとても割り切れない。

 功を焦ったのだろうという身内の声があるそうだが、そんなことは民間人被害者に対してはなんの弁解にもならない。

 国家公務員は、民間人に対しては国家という後ろ盾、いや、国家そのものの代理人として登場する。権力の走狗たる公務員くらい厄介な存在はない。

 それが、「功を焦った」程度の認識になるわけだ。

 国家公務員の本来の主人は国民である。国家とは、1人ひとりが豊かに暮らせるように組織したのである。その国民を手荒な扱いで苦しめたことの背景には、国民より、国家が主人だという、警察・検察・裁判所の思い上がりがある。

 「疑わしきは罰せず」という言葉を無視すれば、警察・検察・裁判所は、いつでも国民に敵対し、支配する権力の走狗になる。