週刊RO通信

日本を食い物にしていないか!

NO.1539

 政治向きの話といえば、(わたしは)自民党を批判することが多い。趣味・嗜好ではない。自民党議員などが反共産といえば理屈抜きに天敵呼ばわりするのとも本質的に異なる。暴言・失言の類についても、のっけから叩き潰す気はないし、一呼吸して、真意を考えてみるくらいの幅はもっている。

 政治家に道徳的人間像を求める気は全然もたない。それは木に縁りて魚を求むのと同じである。もちろん、普通の人間関係で求められる程度の社会人的作法を期待する。たとえば嘘をつくのは許容しない。トランプ的嘘はアウト、誇大宣伝も大嫌いだ。

 和製トランプがいないのは上等だが、政治家が嘘を嫌うとか、正直なのではない。むしろ、朝三暮四的なすり替え、目くらまし、言い逃れは常套手段である。嘘も方便というのはほとんど常識に近い。「誠心誠意嘘をつく」という迷言(人を惑わせる)を誇っているのではないかと思うほどだ。これは保守合同を実現した立役者三木武吉(1884~1956)の言葉である。

 立派なことをなすのだから、そのための嘘は許されて当然。嘘でも、しゃべっている自分が、嘘を真実と確信するようになれば本物、そのくらいの大嘘をつけるのが大政治家だというご都合主義である。これは、大きな嘘ほど人を信じさせるという巷の訳知りが語ることとも一致する。

 「清濁併せ呑む」とは、その人物の度量の大きさを語る言葉である。ベテラン政治家ともなれば度量の大きさが押し出しである。有名なのは田中角栄(1918~1993)の「よっしゃ、よっしゃ」である。その陰では細かな付け届けの涙ぐましい努力があったが、度量が大きいとなればすべてよっしゃ、だ。

 イエローペーパーもどきの話を書いたが、政党も個別人物のリーダーシップの集積である。どんな政治家像が求められているかを見ておくことも大きな嘘を見抜く知恵の1つであろう。

 自民党は国家主義の政党である。かつて中曽根康弘(1918~2019)は、自民党という政党は「国家に忠誠、国民に愛情」の党だと語った。巧みな表現だからおそらく単なる形容詞的解釈で、なにも問題を感じない人が多いだろう。実際、ジャーナリズムもこれを見過ごした。これは国家主義だ。

 国家主義とは、社会において国家を第一義に考え、その権威と意志に絶対優位を認める立場である。明治から敗戦までがこの体制であった。個人はすべて陛下の臣民である。この世に生かされているのも、すべて陛下の思し召しのおかげであるから、陛下に対して臣民の命は鳥の羽毛の程度であった。

 これは人間の尊厳=基本的人権がなく、自由がない。敗戦後は一転して、基本的人権が社会基盤となり、国の主権は陛下ではなく、国民1人ひとりに存することになった。主権在民である。これが民主主義である。民主主義と国家主義はまさに天地が逆になった。

 つまり、中曽根的な表現を引用するならば、民主主義の政党は「国民に忠誠、国家に愛情」というべきである。揚げ足取りをするのではない。ことは社会のあり方の根幹の問題であって、根本をいい加減に扱うようなことでは、社会の約束もいい加減になってしまう。

 たとえば、国益という言葉が軽々しく使われる。しかし、「国益とはなんぞや」を巡って白熱の議論が交わされる場面など見たことがない。国益というと国家の利益であり、あなた1人が異議を申し立てるべきではないという暗黙の圧力がかかっている。これが国家主義の技巧である。

 ところで、自民党は本当に国家主義の党なのだろうか? それにしては、国家の扱い方が粗略に過ぎる。2023年度発行の国債は44.4兆円、年度末の国債発行残高は1,075.7兆円になる。50万円しか稼がない人が100万円の生活をしていたらアウトである。1960年代には戦前の体験から国債発行を厳しく戒めたのであるが、とりわけ安倍内閣は国債発行を当然としてブレーキを外してしまった。

 なぜこんなバカがまかり通るのか。理由は、自民党の諸君が選挙で有権者にいい顔をするためである。すなわち、自民党は日本を食い物にしているのであって、国家主義など嘘の上塗りにすぎない。おかしいことはおかしいと声を上げなければ、わたしたちの未来はきわめて危うい。