論 考

組合はなぜ組織拡大ができないか

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 ――いま、労働組合の力というものをきちんと押さえている組合役員がいるだろうか。心配である。組合員次元における労使対等が形成されなければならない。組合役員の活動だけでは組合活動ではない。組合員が参加してこそ組合活動である。 

組合の力は本当か

 日本の組合はほとんどユニオンショップ制だから、従業員が増加すれば組合員が自動的に増加するという、まことに結構な組織拡大が基盤である。組合の活動家が労働者個人を訪問して組合加入を勧誘する手間やコストがまったくかかっていない。しかも、組合費はチェックオフ協定によって自動的に集まる。組合費を集める手間もコストもかからない。

 こんなことは当たり前で、あたかも空気や水と等しく、組合組織の根幹が確立維持されている。さいきん、先輩から口説かれて組合役員に就いている人たちにはほとんど無関心の領域だろう。

 おかげで、いまや組合は赫々たる社会的地位を確保している。

 ただし、少し考えれば、組合組織の首根っこが、ユニオンショップ制とチェックオフ制によって押さえられている。

 政府と一緒に「賃上げしましょ」コールをし、組合役員を一般従業員とは異なって礼遇する経営者だから、組合組織が盤石なように見えるが、「組合なんて大嫌い」という経営者がメジャーになったらそうはいかない。実際、多くの組合がそのような伝統的経営者を相手にして苦労を重ねている。

2つの労使関係

 労使関係には個人的労使関係(個別従業員)と団体的労使関係(組合「役員」)の2つがある。どんな違いか? 卑近な例をとろう。(話を単純化している)

 組合役員は気軽に経営者と会話するが、一般従業員はそうはいかない。組合役員は無意識であっても経営者に礼遇され、一般従業員は冷遇されている。1960年代辺りまで、経営者は、組合役員も一般従業員も冷遇していた。

 流れが変わったのは三井三池闘争で総労働対総資本という関係、労使対決が先鋭化した。比較的開明な経営者は、つねに労使が角を突き合わせるよりも、話せばわかる関係で行こうと考えた。そこで、組合員の代表たる組合役員を礼遇するようになった。それまでは、組合がストライキをやろうものなら、真っ先に組合役員が解雇されたのである。

 1970年代は日本の労働運動史上、もっとも団体的労使関係が円滑であった。一方、それからどんどん管理体制が精緻を極めるので、個人的労使関係は相対的にますます厳しくなった。

 経営者が組合役員の礼遇戦略に転換した当時、役員と組合員の関係はかなり親密でありかつ緊張感が溢れていた。勉強会も職場集会も盛んである、組合員は組合役員にずけずけ文句を言い、注文を付けた。これを突き上げと呼んだが、突き上げがあるのは関係がホットなのである。

 新人役員は、積極的に職場へ行くように指導された。極端にいえばデスクワークは残業時間にやれという。(残業代はない)職場へ出れば、必ず愚痴・不満の類が飛んで来る。不慣れで半端な対応をしようものなら、「お前、御用組合か!」と怒号が飛んで来るのも珍しくない。新人役員は自然に鍛えられる。かたや職場へ出ない新人は次の組合役員選挙では降板するか落選する。

 つまり、組合員と組合役員は一体感が強かった。ところが1980年代のバブルは、組合活動にも厄介な影響を与えた。比較的労働条件改善が円滑に進んだことから、組合役員のいわゆるご用聞きが手薄になった。勉強会・職場集会も緩んで組合員の集まりが極端に減少した。

 ここで、団体的労使関係と個別的労使関係が分離症状を呈した。本来、団体的労使関係の役員は、個別的労使関係の組合員と、組合員意識を共有しているはずであった。しかし、役員と組合員の接触が疎遠になり、人事担当と役員の関係が頻繁であるから、団体的労使関係は円滑なのだが、個別的労使関係が置いてけ堀をくうことになったわけだ。

 組合役員の力は、個人的力量はあるとしても、本来は組合員の力の総和である。しかし、役員と組合員の接触が希薄になると、団体的労使関係だけが独り歩きする。その結果、個別的労使関係はますます労使非対等へと傾斜する。

個人的労使関係対等こそが組合の目的

 労使関係が2つあるといったが、目的は1つである。すなわち組合員各人が対等な労使関係において自由闊達に活動できるということが目的である。いまの組合において、個別的労使関係が上等だというところは少ない。

 連合の集会に総理大臣が来て、会長が「光栄です」というのは社交辞令であるから、いちいち突っかかる必要はないのだが、ちょっとお考えいただきたい。組合員さんが「光栄です」と喜んでいるだろうか。組合員がどんな気持ちで働いているかご存知だろうか。組合役員は誰のために活動するのかという基本を忘れているのではないか――これが非常に気がかりである。

 組合力は、数である。ただ頭数ではなく、組合運動に参加する意志が明確な組合員の数こそが勝負である。

 労働組合の組織率が減少を続けているのは、組合活動に参加する組合員が減少しているからである。組合組織があるところの労働者が生き生き働いているのを見れば、未組織労働者も組合を作りたくなる。しかし、組合費の投資効果がないなどという事情において、組合を作ろうとする労働者は多くはない。

 労働組合は、労働者の自発的・自主的組織であるが、なにもないところに組合を組織するのは容易ではない。そこで、先に組織した組合は「組合組織の強化充実・拡大」を運動方針に掲げてきた。

 日本の組合はほとんど企業別組織であるが、労働組合という以上、母体は「労働者全体」であって、企業内従業員ではない。ところが従業員組合的意識を克服できない。そこで産業別組合を打ち立て、企業横断的組合活動を構築するのだが、いかんせん産業別組合と個別企業の牽引力を比較すると後者が圧倒的である。産業別組合の役員が個別企業の影を引きずっている。

 そもそも、産業別組合は個別企業組合をなくして産業別に一本化するという大望を抱いていた。いま、そのような意識の活動家がおられるだろうか。

 個別組合は従業員に近い。産業別組合は従業員には遠いが労働者に近い。そうでなければ産業別組合も連合も存在価値を発揮できない。

 いま、組合役員が組合活動だと思って活動しているのは組合執行部という機関の活動にすぎない。よくよく注意してほしいが、組合というのは、組合員全体である。たしかに組合費を支払うのは組合活動に参加しているのだが、組合費の使途はほとんど執行部の活動に充当されている。

 組合活動というのであれば、組合員が具体的に活動していなければならない。組合役員が熱心に勉強しても、組合員各人が勉強したのではない。組合役員が勉強したのであれば、それを組合員に広げることによって、組合の勉強活動になる。組合役員が勉強すれば自分自身は成長するだろうが、自分が抱え込んだだけでは、組合(員)活動にはなんらの変化もない。

組合力を真剣に考えたい

 組合役員の多くが間違っている、あるいは無知なのは、組合力というものがいかなるものかということである。戦後組合活動の課題はなんとしても賃上げだった。組合員の期待を一身に背負って組合役員は会社と交渉するのだが、理論的に歯が立たない。だから、当時の組合役員は交渉ともなれば猛勉強した。

 勉強しても、容易に会社側の反論を論破できない。半端な回答を組合員に見せても当然ながら了解とはいかない。会社を論破できず、組合員にも総すかんを食らって総辞職した執行部も少なくなかった。

 最近、百貨店労組がストライキを打って話題になった。メディアなどは、ストライキを打つ決意で賃上げ交渉をやれと煽るが、ストライキを打っても状況が変わらず、むしろ悪化したケースは山ほどある。つまり、成功と失敗は甘く見ても五分五分である。ストライキを打てば組合の有利になるという単細胞的思考は危ない。

 なぜならストライキが効果をもつのは彼我の条件によるのである。要求貫徹までストライキを打つという言葉はよろしい。しかし、ストライキは相手を追い込む戦術ではあるが、組合員もどんどん追い込まれる。賃上げでストライキを打つとしても、組合員各人がどこまで性根を据えているかをきちんと押さえておかないと、ストライキを打ちながら組合員が崩れていく。

 組合は組合員要求を組織化して運動するのだが、いま、組合員の要求に筋金が入っていない。まず、組合員の要求をしっかり作ることから取り組んでほしい。