週刊RO通信

戦後の礎はボツダム宣言

NO.1519

 1945年7月26日、ポツダム(独)で、アメリカ、中華民国、イギリス(後ソ連参加)が対日共同宣言を発した。これがポツダム宣言である。来週、ポツダム宣言から78年を迎える。ここから戦後日本の大転換が導かれた。いわゆる玉音放送よりも、宣言が戦後日本の再生の礎にふさわしい。

 宣言は前文13項である。日本国の降伏を要求し、その条件は、軍国主義の除去、領土の制限(本州・北海道・四国・九州および連合国が決定する諸小島)、軍隊の武装解除、戦犯処罰、民主主義復活強化、経済の非軍事化、連合国による占領体制などである。

 10項では、(前略)日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立せらるべし。

 12項には、前記諸目的が達成せられ、かつ日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立せられるにおいては、連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収せらるべし。

 官僚がいかに理屈をつけようとも、宣言には、人々が臣民から人民に転換するべきことが主張されている。支配層にとっては、とにかく国体・天皇制が覆るのが超大問題、軍部は執拗に一億玉砕を唱えて、国も国土も人々も壊滅しても、降参しないかぎり敗北ではないと騒ぐ。さらには、降参すれば、革命が起こるのではないかと戦々恐々でもあった。

 回答しないでもたもたやっている間に、8月6日広島、8月9日長崎に原子爆弾が投下された。8月8日にはソ連が対日参戦した。いわゆる天皇の聖断でようやくポツダム宣言受諾を通告したのは、1945年8月14日の23時であった。神州不滅でもないし、神風も吹かなかった。しかもなお、敗戦といわず終戦という。政治的辻褄合わせの技術だけは世界トップ級だろう。

 さて、かつて安倍氏は国会で「ポツダム宣言を読んでいない」と答弁した。いかになんでも未読であったとは思えない。答弁に窮したとか、胸糞悪かったのかもしれない。しかし、いかに戦後生まれの政治家であるにしても、しかも右翼思想だから、読むのは読んだが、無条件降伏を認めたくないからか、宣言が方向づけした民主主義が嫌いなのか、平和志向とそりが合わないのか。

 当時わたしは、これは政局を揺さぶる発言だと考えた。事実を事実としてとらえ、妙な歴史観に頼らない価値観を持つことは政治家、とりわけ指導者層の人が必ず備えなければならない、いわば品位・人格である。

 必然的に、新聞がこの発言を簡単に失言ですませるとは思わなかった。なぜなら、ポツダム宣言こそが戦後日本の針路を大変更したのである。多くの人々が、日本の戦後は天皇の玉音放送以降だと理解しているが、これ実は、ポツダム宣言が生んだ出来事の1つである。

 無条件降伏による敗戦は、日本始まって以来の大画期である。長い封建主義の時代に終止符を打った。その時代を鎌倉開幕以来とみれば、中途半端な近代化の明治維新を経て敗戦まで760年間続いた。民主主義は、まだ80年に届いていない。過去の見えざる遺産に圧倒されやすい。いまの民主主義はとても未熟である。少なくとも育てる方向へ尽力しなければならない。

 民主主義が基本的人権に立つ以上、人々の人権は国が異なっても同じである。そこから、民主主義は必然的に平和主義とタイアップする。アメリカの力の外交は民主主義ではない。民主主義は覇権争奪戦とは無縁である。

 さらに日本は、ポツダム宣言によって、「民主主義と平和主義」に「敗戦」が明確に刻印されている。つまり、敗戦から平和主義へ転換したのは、民主主義が必然的に有する平和主義に加えて、戦争の反省から戦争反対がある。だから、日本は戦後民主主義でやってきたというだけでは歴史の事実を伝えきれていない。1960年代あたりまではポツダム宣言の存在を十分認識した人がいまよりはるかに多かった。だから平和主義の声が高かった。

 ポツダム宣言(敗戦)と玉音放送(終戦)と、どちらでも大勢に影響なしという見解もあろうが、ポツダム宣言を軽視するために、戦後日本の針路についての重要なアンカーが欠落し、針路不明の場当たり政治が続いている。歴史を正しく認識する姿勢がない政治は正しい針路が得られない。