週刊RO通信

お手軽幸福論?

NO.1518

 朝日新聞(7/6)の言葉季評という欄で、歌人の穂村氏の、「生まれながらのユーザー貴族/便利な世界にない幸福感」と題したコラムを読んだ。穂村氏は1962年生まれの歌人である。要旨は、次の通りだ。

 ――曽祖父が時代に与えられた運命は開拓、祖父は戦争、父は復興、私は消費(の世代)である。

 父は仕事を通じて、戦後の製品開発をテーマとした「プロジェクトX」の登場人物にも共通するような達成感があったが、生まれながらのユーザーである私には持ちえない感覚だ。ハーゲンダッツのアイスクリーム、デザイナーブランドの服、マイカー、海外旅行に出かけるなど、より高度なユーザーを目指すのが幸福感の追求だった。では現代の若者は?――

 そこで若い世代の短歌が紹介される。(いずれも平出昇「了解」から)

「起きたら夜で、だけど電気でよく見えて 生きてよかったことはほんとにいっこもないな」

「電話器からここにはいない人の声が聞こえるのは凄いはずなんだ」

 ――便利でも、心の中は暗いままなのだ。〈私〉は便利なものが最初から存在する世界に生まれてきたのだが、幸運や幸福の実感はない。——ぎりぎりの「ほんと」なんだろう。透明な絶望の深さを感じる。――

 なるほど、明治以来1980年前後までは、「欧米に追い付き追い越せ」の気風があった。まさに穂村氏ら若者世代が社会に登場したところで、当時から若者は追いかけるもの(こと)がないという論調が流行した。

 実際、ジャパンアズナンバーワンの時代で、これからなにを目指すのかを、たとえば労働組合でもかなり真剣に議論した。1つは、「モノから心へ」で、モノばかり追求したのではダメだ、1人ひとりの生き方からしっかり考えねばならない。そこまでは到達した。

 心理学の欲求説もなんども往復した。生存欲求が満たされたら社会的欲求へ、それも達成したら次は成長欲求(自我・自己実現)への挑戦だという話も少なからず盛んであった。

 成長欲求は他人が持ち上げてくれるわけではない。どこまでも、自分自身が自覚して、自分がなろうとする目標に向かって直進するしかない。しかし、欠落しても、絶対的に困窮するような生存欲求とはあきらかに異なる。つまり、辛抱できるならば、苦労して挑戦する必要はない。

 これは、成長欲求議論の落とし穴でもあるが、別に不思議でもなくまったく当たり前のことである。事実は、1990年代初めにバブルが崩壊するとただちに証明された。成長欲求などほとんど語られなくなった。逆にいえば、その後の日本が経済はもちろん、さまざまな面で停滞感を強めているのは誰もが気色悪く感じているのではあるまいか。

 日本人は昔からニヒリストやペシミストが多いと指摘されてきた。それらは1960年代辺りまでは若者の時期的一大特徴! であり、その時期を超えると安定感をもつようになるとも見られていた。とすると、かの「プロジェクトX」の大ヒットは、古き良き時代への晩鐘だったともいえる。

 愚考するに、便利が幸福感と合致するという前提は正しくない。幸福感は決定的に1人ひとりの精神世界に属する。もし、幸福感がコンビニ的であったら、日本はさしずめ幸福感の大洪水である。かつて「真夜中にいなりずしが食べたくなってコンビニで買って食べる」みたいなコマーシャルがあった。それすら極小ではあるが自分の欲求を明確に意識しているわけだ。

 非常に単純化すると、幸福感とは、自分が明確に追求するもの(こと)を持ち、それに向かって直進している状態である。それすらも達成してしばらくすると、茫々たり寂寥たりという心理状態になるだろう。三木清(1897~1945)はパスカルを勉強して、「人間は運動体である」と主張した。おおいに共感できるのではあるまいか。なにを運動するか、それが問題だ。

 もう1つ、魯迅(1881~1936)の素晴らしい言葉がある。いわく、「絶望に絶望する」。透明な絶望感の世界に漂うのも風情があろうが、それよりも、絶望に絶望するほうが粋だろう。希望が持てないのであれば、さらに突っ込んで絶望に絶望するべきではあるまいか。