週刊RO通信

岸田的バクチ政治

NO.1516

 1931年の満州事変に始まり、1937年には日中戦争に拡大、さらに1941年の太平洋戦争に突入して、1945年に敗戦するまでの15年戦争は、惨禍の規模・期間からしても、過去の歴史として簡単に忘れ去れられるものではない。こんなことはだれでも自明の理だと考えるだろう。

 国が亡ぶかどうかの瀬戸際まで行った敗戦から、民主主義と平和主義を二本柱とする日本国憲法が生まれたのは、戦争の計り知れない惨禍の代償としては驚くばかりの僥倖である。これを猫に小判にしてはバチが当たる。それほど大きな価値である。

 しかし、敗戦を終戦といういかにも中立的表現にして定着させたように、問題の本質をどこまで真剣に考えたのか、まことに心許ない。どことなく、戦争が天変地異みたいであって、いかなる主体が、いかなる決定をして行動した戦争であったか――戦争の歴史的総括がきちんとおこなわれなかった。

 そのために、せっかくの民主主義と平和主義が順調な発展を遂げなかった。民主主義も平和主義も、いまの日本においては、きわめていびつ、奇形を呈していると思えて仕方がない。これは戦争当時に生まれていなかったから、よくわからないし、責任もないという政治家の発言にも露骨である。

 自民党は国家主義の政党である。国家主義とは、人間社会のなかで国家を第一義に考える。その権威と意思に絶対の優位を認める考え方である。愛国心の、国家のためになど振り回しつつ、国家の歴史を放擲するのは実にチャランポランである。

 自民党のいい加減さが多くの国民をして、自由にさせてくれる民主主義の政党だと錯覚させている面は否定できない。ただし、自由といい加減さは絶対に異なる。いい加減な政治を重ねて行けば、やがて行き詰まりが来る。そして、いまはかなりそれが近づいているように心配する。

 15戦争にいたる日中戦争が長く続いたのは、ウクライナ戦争を始めて目途がつかないプーチンと同じである。日本軍が撤兵すれば終わりだがそれができない。戦争を続ければ続けるほど人的・物的損害が大きくなるのは当然だが、撤兵しようにもここまでに、膨大な戦死者・遺族、負傷者が出ており、戦地でも内知でも、みんなが辛苦しているから、万一、方針転換すれば、内乱や暴動が起きるかもしれない。

 つまり、人々が戦争やってよかったというには、勝利しかない。それもしかるべき戦利品を獲得して、という虫の善い話である。戦争で利益を得ることなどできはしないが、壮大な欲ボケの構造が出来上がっていたわけだ。

 太平洋戦争開戦については、いかにトンチンカンでも、アメリカと日本の経済力格差、軍事力格差はわかっていた。つまり、決定的に非常識な開戦の決断をおこなった。

 政治家・官僚らは、国内は何が起こっても不思議はないから、内乱に耐えるか。それとも戦争拡大の道へ進むか。これの二者択一しか念頭にない。戦争で号令を掛ければ黙ってついてくるのだから、戦争だ。

 対米戦争を開始すれば短期終結は手立てがなく無理である、敵の死命を制する手段なきを遺憾とする――こんな修飾語を100万語重ねてもまったく意味はない。資源やエネルギーの不足も、「座してじわじわ困窮するより、思い切って挑戦することによって活路を開く」、これは東条英機の言葉である。

 1人の人間のロマンであれば、まあ、好き放題に思い描いてもらってよろしい。しかし、国民の苦しみをも凌駕するほど価値があるとは思えない。事実として、東条のバクチ発言が実行され、生きるか死ぬかの状態で敗戦に辿り着いたのである。

 東条は演説好きで、なかなかの美文調である。岸田氏は話すのも聞くのも苦手、大嫌いらしい。安倍氏や菅氏のような居丈高ではないようだが、なにがなんでも自説に拘って押し通すところは前二者に優るとも劣らない。理屈抜きで、ごそごそと蛮勇を揮う。さらに特筆大書するべきは、地味で目立たないが、かなりバクチ性の気性らしい。バクチの対象は国民と国家である。

 なるほど大物である。大事な歴史を勉強しない。考えない人物が招くのは、またまた敗戦である。すでに敗戦しているという声も聞こえる。