週刊RO通信

政治は修飾語から腐る

NO.1515

 言葉は修飾語から腐る――というのは、小説家などものかきでなくても十分に理解できるのではあるまいか。絶世の美女を表現するのに沈魚落雁、羞花閉月などの表現があるが、こんな言葉をプロポーズで使えば、バカにしないでよと引っぱたかれるのがオチだ。まあ、ここでは、内容を伴わない歯の浮いたような言葉、誇大表現みたいな言葉の使われ方について書く。

 「防衛費の増額の財源を裏付ける財源確保法」、これなどさしずめ素寒貧の人に、きみも億万長者になれるというのとよく似ている。今般、予算などほっぼり出して岸田氏が突っ走った心は、要するに防衛費大増額を人々に飲ませればよいという意図だろう。防衛費はGDPの1%程度の不文律を大々的に突破すれば、岸田の名前は歴史に残るという玄人筋の見方だ。

 「性的少数者に対する理解を広めるためのLGBT理解増進法」なるものは、論議経過をみれば、いかにも他者の人権に無知蒙昧な連中が自民党を牛耳っているかを白日の下にさらした点では、反面教師的な役割を果たしたといえなくもない。とにかく、ひどいものだ。

 彼らは差別自体の意味がわかっていない。山東議員のように、区別と差別の違いがわからない人もいる。不当な差別はいけないというのは根本からの間違い。それをいうなら、不当な区別はいけないというべきだ。差別は人間の尊厳(基本的人権)に背馳するから不当なのである。妥当な区別でないから差別なのだ。

 差別されている人々の差別の是非を多数派が決定するような考え方の枠組み自体が大差別である。だから、いつまでたっても差別がなくならない。自民党議員は、基本的人権について、基本から学び直すべきだ

 「経済財政運営と改革の基本方針」、いわゆる骨太の方針なる言葉は、20年前の小泉内閣から乱用されているが、どこが骨太なのか、わからない。政府の借金は2022年度末に1,270兆円である。骨太どころか、骨密度について見ればきわめて脆弱である。岸田氏提唱の「新しい資本主義」という言葉のペテン性もきわめて高い。ついでながら、数多おられる経済学者からの堂々たる疑問・異議申し立てがないのはまことに不思議だ。

 古代ギリシャ人は演説好きであった。かれらは美辞麗句の大演説、大言壮語には共感を示さず、いかにして話し手の本心を見抜くか、真実を聞き取ろうと努力したそうだ。その当時は、話し手もじっくり考えながら語りかけた。

 美辞麗句そのものは美を表現するために工夫されるのだが、美とはなにかの基準がはっきりしていないと藪蛇になる。そもそも、現実にだれもが美しいと認めるものは、容易には見つからない。対象たる美と、表現との間に明らかな差異が発生する。その差異が大きくなるほど、美辞麗句の薄汚さ(実は、それを使う人の責任)が浮かんでくる。

 開高健(1930~1989)は、フランス人の女性翻訳家と歓談中、フランスで売れっ子になりたかったら、文章はできるだけ無駄を省き、短く、核心を突くように書くべきだと言われた。デカルト(1596~1650)の「明晰・判明」たろうという考えが背後にあるのかどうかは知らないが、その対極に、マス目を埋めるための原稿書きがある。自分で書いた原稿を意識的に減らす作業をやってみると、驚くほど短くできる。1文字なんぽならば、文字数が多いほど稼げるが、そうではない。これ、ものかきに限らず、原稿を書くときの大事な心構えだと確信する。

 官僚答弁、官僚的表現なるものは、まさに批判されねばならない。ぼかす、はぐらかすのがその最大のテクニックである。言質を取られないことこそが最上である。下世話流でいえば、まともに答えないのだから、本来、質疑応答の名に値しない。この国会で、岸田氏がまともに答弁したのを知らない。岸田氏の答弁はまったく低質であった。

 言葉は修飾語から腐る。これを転用すれば、民主政治は修飾語から腐る。そしてそれに拍車を掛けるのが数の力と官僚主義である。

 野党の内閣不信任案をどうせ否決されると批判する向きがある。ならぱ、それは議会政治全体にいえる。どうせ多数が勝つとわかっていて審議するのも形式主義だろう。野党は多数に敢然と立ち向かってこその野党だ。