週刊RO通信

「空気」という嫌な空気

NO.1509

 朝9時に電話をかけたら、「お疲れさまです」と挨拶されて面食らった。どうやら1990年代からと記憶する。以来30年、すでに挨拶の主流であるが、わたし的には、依然として無違和感が消えない。この、わたし「的」なる表現も一癖二癖あって、わたしがわたしを客観視しているというか、わたしにワンクッション置いて、わたしの存在が薄く感じられる仕掛けである。

 朝からお疲れさまといわれると落ち着かない。そんなに疲労困憊した表情をしているのだろうか。なぜ「おはようございます」が嫌われたのか。不思議である。さっこん、ホテルバーで気炎を上げる気分ではない。たしかに人生にくたびれた結果でもあろう。それはともかく、夕刻早い時間に行くと、ホテルマン同士で交わされるように、「おはようございます」と迎えられた。仕事の気分一新、「さあ飲もう」という気分が湧いた。

 お疲れとおはようを比べる。おはようは、自分が前面に出た感じ。お疲れは相手の立場第一に慮った感じといえようか。おはようは、元気な自分を相手に押し付ける感じだと思うのかもしれない。疲れてもいないのにお疲れさまとはなんだと怒る人はいなくて、おれは明るくおはようなんて気分じゃないんだよと思われるリスクを考えたのだろうか。

 もちろん、1990年代から、わが社会の沈滞感・閉塞感が強いという見方は否定できない。右を見ても左を見ても、パーッとした様子のいい話がない。挨拶ごときで他者の不興を被らないようにと考えるならば、無意識のうちにお疲れさまが無難という流れになったのかもしれない。

 わたしはもともと、会社などで明るく挨拶しましょう、の「挨拶キャンペーン」が大嫌いで、挨拶なんか自由にさせろという主張である。そうではあるが、お疲れとおはようを比べると、やはりおはようのほうが好ましい。

 お疲れもわたし的も、理屈を重ねれば、対人関係において、自分をできるだけ消す効果を果たしている。つまり、少しでも他者との間で摩擦・葛藤を抱え込まないための工夫ではないか。某大学教授によれば、最近の大学生は、意見を述べるとか、反論するとかを嫌う。ネットの「いいね」から入って調子を合わせるのと同じで、ものごとは、なんとなく空気で決まるという。

 ところで、これは最近の現象ではない。実に封建社会から続く日本人的気質である。義理と人情を第一に、ことを荒立てず、人間関係を円滑に維持することがなにより大事だという処世術である。

 社会関係における自分の立ち位置を思索することは大切だが、人間関係上の摩擦・葛藤を避けようとすると、決定するべき問題についてしっかりした意見交換ができない。意見交換がチームの思考力を引き上げるという常識が育っていない。議会を筆頭に、いつまでも議論が下手くそである。

 人間関係において摩擦・葛藤を避ける傾向が強いのは、自分自身の思索を深めないことでもある。ものごとをきちんと考えれば自分らしい意見に行き着く。しかし、他者との間の摩擦・葛藤を避けるのだから、自分自身の意見を煮詰めるのはムダな活動である。さらに、自分自身がそうであれば、当然ながら他者にもそうあってほしい。これが空気というものの本体である。

 これは、自分が自身を大切にしていないのである。自分を大切にしない人が他者を大切にすることはあり得ない。民主主義の出発点は、自分自身である。自分自身も他者に対しても、その人間性(個性)を尊重する。これが人間の尊厳であって、法律的には基本的人権と呼ばれる。自分自身⇒人間の尊厳⇒基本的人権の流れが個人主義である。

 個人主義に対置するのは国家主義である。人間関係重視(実は摩擦・葛藤を嫌うだけ)は、個人主義よりも国家主義との親和性が高い。1970年代あたりまでは、「自分の意見は堂々と主張する」「他者の意見を率直に聞く」「もし自分が正しくなかったと気づけば率直に認める」という気風が主流だった。その後、この気風が後退して、KY⇒SNS的「いいね」が前面に登場したようだ。これでは大昔からの日本人的気質に戻った感じだ。

 敗戦、民主主義制度から78年過ぎたが、人々の根底の意識が変わっていないとすれば、民主主義が成長しにくいのは当然である。民主主義が、1人ひとりの個人的革命だといわれる意味はきわめて重たい。