週刊RO通信

包摂という言葉が妥当か

NO.1496

 立憲民主党の西村氏が、2月1日衆議院予算委員会で岸田首相に同性婚の法制化について質したところ、岸田氏は「家族観や価値観、社会が変わってしまう」(から反対だ=筆者)と答弁した。当然ながら答弁に対する院内外での批判が起こった。もちろん、同性婚はいろいろさまざまな意見がある。

 しかし、岸田氏のいう家族観とはなにか。しばしば使われるが、家族観の言葉の定義らしきものはないと知るべきだ。家族は、女と男がいて子どもを産み、子どもが成人して同様に繰り返す。それは家族観ではなく、いわば動物観である。この点、杉田水脈氏は、すべての家族を動物性だけで理屈しているために、男女平等は絶対に実現しない(させない)説で批判された。

 1970年代には、精神学者D・クーパーが、「家族は死なねばならない」とぶち上げて新鮮な衝撃を与えた。彼は、「家族は、われわれが社会人としての義務を曖昧なやり方で濾過(ろか)し、われわれの行為から純真で豊かな自発性を奪ってしまう組織」だと痛烈批判した。当時の若者は、「個の確立を叫び、個の確立のために家族からの離脱に挑戦しなければならない」と受け止めた。家族が家族の自立を妨げているという問題提起であった。

 社会にさまざまの問題がある。人々はそれを社会的に解決するのではなく、家族へと逃避して生きている。倉田百三(1891~1943)は、「自分をあんなにも愛してくれる親が他人に冷淡な様子を見るとあさましくなる」と書いた。動物的愛では、愛する者と愛される者の本当の価値が結びついていない。

 すなわち人間社会における愛とは社会的愛である。彼は民主主義以前に非常に大事なことを発見していた。人類は一家、世界はみな兄弟といえば陳腐かもしれない。家族は人類、兄弟は世界と置けばどうだろう。社会に背中を向けて小さな家族へと逃避するのではなく、大きな家族=社会こそが、人間の家族にふさわしい。

 岸田氏は家族観をもって同性婚反対を正当とするのであるから、まず、氏の家族観なるものを明快に示してもらいたい。次の価値観となると、なにがなんだか、しゃべっている本人も曖昧模糊として容易に説明できないのではないか。広辞苑には、――何に価値を認めるかという考え方。善悪・好悪などの価値を判断するとき、その根幹をなす物事の見方――と書かれている。

 家族観にせよ、価値観にせよ、中身不明のカードを引っぱり出して答弁するのだから、評判がよくないのは当たり前だ。

 そこで3日、荒井勝喜首相秘書官が首相の弁の不足を補わんとしたのが、「性的少数者、同性婚は見るのも嫌だ。秘書官室もみんな反対する。同性婚を認めたら国を捨てる人が出てくる」という一連の発言である。

 オフレコだからなんでもあり、報道される心配はないから、この際記者連中のオツムにきっちりインプットしておくつもりだったろう。まあ、それにしても見るのも嫌とは、真正面から大ダンビラで切りつけた感。秘書官室も云々は、首相は孤立していないよ、周囲も同意見なんだと最大のサホートをしたつもりだろう。同性婚で国を捨てる人も出るというのは、いかなる情報によるのか知らないが、発言通して品性下劣は否定できない。

 同深夜に至り「完全に撤回」の記者会見を開いた。紳士の装いしていても、口を開けばとんでもなくずっこけた人がいる。お仕事は、首相の広報・スピーチライター・メディア対応だという。華やかでもあるが、人物識見、緊張感が問われるだろう。それにもかかわらず。——これは小さな失言ではない。直ちに更迭は当たり前だが、少なくとも岸田氏の足を引っ張ろうとしたのではないことからして、首相と秘書官8人のいつもの会話を聞いてみたい。

 差別や差別発言は理性ではない。だから差別をなくそうとしていろいろ論じても、なくならない。

 朝日社説(2/5)は、「『包摂社会』は口だけか」と見出しを掲げた。包摂は――ある概念がより一般的な概念に包括される従属関係である。これを早とちりして、一般的な概念(多数)に少数が従うべきだと解釈したのでは、岸田氏の立論と同じになる。少数派の人間的尊厳も多数派のそれも同じである。とすれば、少数派の人間的尊厳を多数派が決定するという理解もまた改めておかなければならない。