週刊RO通信

22春闘を機に組合活動の活発化を

NO.1436

 連合の2022春闘方針が決まった。賃上げは定昇込み4%程度、企業内最低賃金時間当たり1,150円以上が柱である。正味賃上げ2%であるが、21春闘は1.78%、20春闘は1.9%であった。

 1955年の8単産共闘から、56年に本格的に春闘が開始したので、2022春闘は65年目に当たる。わたしが組合に関わったのは1964年から82年である。その以前も後も、賃金について経営側が大盤振る舞いするなんてことはまずなかった。

 たまたま企業業績がよくても、経営側は、いかに企業経営が厄介なもので、いかに雇用の維持に腐心しているかなど、延々と説明して財布の紐すら見せない。企業業績不振であれば、それこそ鬼の首を取った勢いで、この苦しい時に、なんたる安直かつ、過大な要求をするかという反論を述べ立てる。

 経営にとって、賃金はコストであり、コストについて厳しくするのは必然である。働く人にとっては、賃金が生活のすべてを支配するから、こちらも真剣かつ深刻である。それに80年代までは、消費者物価がつねに数%という時代だから、家計のやりくりが大変だった。

 経済大国というようになって、飢餓賃金の時代は昔話になった。1990年代からこんにちまでは、賃上げ交渉は静かなもので、かつて「春の嵐」といわれた面影はまったくない。もちろん、働く人からすれば、生命線である賃金引上げに熱くならないですむのなら、こんな結構なことはない。

 しかし、21世紀に入って、日本の賃金は明らかに下降している。飢餓賃金時代とは異なっているとしても、家計の算段は容易ではない。いろいろさまざまな統計が作られているが、数字よりも、働く人の元気がないのが、なによりも現状の厳しさを語っている。まことに心配である。

 経済大国というが、実のところ、働く人の実感としては、こんな言葉はすでに死語ではあるまいか。正規社員であっても、ゆとりらしきものはない。まして非正規社員であれば生活難にある人が圧倒的だ。

 残念ながら、組合運動が働く人全体を包む力量を持っていない。もちろん、組合活動を推進する人たちが、そうした全体的状況を是としているわけではない。だからこそ、格差問題が大きく論じられている。

 本来雇われる人々は、自分で自分の働きを公正公平に獲得維持するために、仲間を糾合して組合を結成するのが理屈上の筋道である。だから、既存の組合が、組合のない人たちに組合結成を働きかけている。しかし、これまたマンパワーと資金力が大きな壁である。働く状況は厄介だらけだ。

 資本主義においては、「資本」「経営」「労働」の3者が軸である。いずれが欠けても円滑には動かない。いまや、資本は実物生産をはるかに超えた大きなおカネとして存在する。しかし、おカネがあり余っていても、大方の人々の生活には回ってこない。人々の生活実感は低空飛行中である。

 企業活動における、経営と労働の活躍が経済大国そのものであった。こんにち、日本の産業が順風満帆だと考える人は少ないはずだ。株価がそこそこであっても、国民生活は沈滞したままである。ひところに比べて、企業活動の活力が低下しているのは否定できない。

 企業という秩序に対して、働く人(組合)がなんらかの異議申し立てをすることは、秩序からすれば障害として見えるかもしれない。実際、少なからぬ資本家・経営者が、組合活動の静かなること、組合が存在しないことを望んでいる。ただし、秩序というものは、専制や抑圧によってはならない。

 企業の圧倒的多数である雇用されている人々が、気持ちよくメンバーシップを発揮する(士気=やる気)からこそ、秩序の意義がある。果たして、こんにちの働く現場に活気があるだろうか。士気は、1人ひとりが発揮する。社長のメッセージ1本で巻き起こるようなものではない。

 長年、組合は、まことに会社思いであり、賃金は2の次3の次となっている。少し見方を転ずれば、その会社思いが、組合組織からも、ひいては会社からも「やったろやないか」という気風を奪ってきた。

 そこで組合は、まず、働く人たちの元気を引っぱり出すべきである。22春闘で、職場での話し合いを大きく展開してみようではないか。