論 考

五輪の遺産?

 1964年東京五輪が終われば、祭りの後の寂しさであった。今回は祭りの前からわびしいが、とりあえず、横へ置く。

 テレビがよく売れて五輪景気に沸いたのも束の間、反転して不況になった。わたしは入社2年目であった。当時のボーナスは、ボーナスというよりお小遣い・寸志という程度だったが、一部は自社製品支給となった。

 イヤホンで聞くマッチ箱程度の大きさの鉱石ラジオだった。中波と短波だけ受信できる。音響製品を製作している某事業所が鳴かず飛ばずで、操業対策として一般には販売していない鉱石ラジオを生産し、社員全員に配った。ぶつぶつ言いつつも、趣味の人が少なくないから、仕事時間中にこっそり、競馬中継を聞いて、結構喜んでいた。

 『東京百年史』には、――1カ月足らずの期間の「巨大運動会」は都民生活を豊かにする要素にはなり得なかった。運動会の化粧は東京の体質改善による結果としての美ではなく、あくまで化粧にすぎなかった。――

 保守の都民生活に対する行政能力が問われて、67年4月には、初めての革新都知事・美濃部亮吉氏の登場となった。

 まだ、幼かった菅少年は東洋の魔女その他に心奪われて、高齢期まで温めていたらしいが、そんなものは一時の浮草、はかないのである。という、リアルな気持ちを持ち合わせないものだから、ど壺にはまった。

 今回の五輪は、いかなる社会的・政治的遺産を形作るであろうか。ちょっと早いけれども、今朝、ふと昔を思い出した。

 叶うことなら、みんな揃って健康な知恵を体得したいものだ。