論 考

ウォッチドッグの精神

 共同通信の論説副委員長であった柿崎明二氏が、菅氏の直々の招請(だと思われる)で首相補佐官に転身した。柿崎氏は、安倍氏について厳しい批判もしており、氏を知る人にも、われわれのように報道だけで知ったものにも意外感があるのは不思議ではない。

 政治権力側からすれば、自分たちの実像を露骨に書かれるのは嫌であろう。一方、手の内を熟知した上で、批判側から転じて、共に政治を推進してくれるとなれば、強い味方だ。柿崎氏は菅氏が国会議員に当選した1996年からの付き合いらしいから、人間同士としては相互信頼が形成されていたであろう。

 だいたい、日本の政治記者は、政治家との人間関係を作るのが記者としての重要な道筋である。よろしい記事を書くためには、政治家の懐に飛び込まねばならない。それはまた、いわゆる両刃の剣でもある。

 ジャーナリズムは権力の監視をするというのは正当なあり方である。しかし、考えてみれば、ジャーナリズムが権力に対して「watchdog」(監視人的役割)を担うというのは輸入品概念である。戦前の国策推進に狂奔した反省から、それをジャーナリズムの使命として掲げたというものの、あえていえば記者1人ひとりの心構えにすぎない。それは、各自の個性によって、どうでも判断される。

 上層部から末端に至るまで、「watchdog」の誇り高き精神が貫かれているような新聞社(通信社)があるのだろうか? 逆にいえば、そのようなプロ意識が組織文化となっているのかどうか。その前提で、「これはわたしの仕事だ」という意識が肉体化されていなければならない。

 この際、柿崎氏個人の選択の問題としてではなく、ジャーナリズムの精神というものを深く再検討してもらいたい。