週刊RO通信

内閣の賞味期限切れ近づく

NO.1350

 緊急事態宣言後の、政府と東京都のすったもんだは、まず、いまだ政府の感染症対策の基本戦略が定まっていないことを天下にさらした。政治家の好きな決断と実行という言葉があるが、それが浅慮と拙速になってしまうのでは願い下げだ。緊急事態宣言の趣旨からすれば、これは一大合戦を意味するのであって、いわゆる山場、勝敗を決する分岐点のはずである。

 小池氏が自粛効果を可及的速やかに挙げたいと考えたのは定石である。ところが政府は、大声疾呼しておいてしばし様子を見てから次なる手を打つというのだから、それなら緊急事態宣言を出さなくても、従来の流れにおいて様子を見ればよろしい。容易に成果が出せないので、三文芝居にしびれを切らした「聴衆」からブーイングが出るのが恐い。幕間狂言でもなんでもいいから目先を変える――と勘繰られても仕方がない。政府は長期政権を記録する大政治家(?)に率いられているはずである。

 目下事態は非常に厳しい。絶対的確実な手立てがあるわけではない。もちろん民主主義であるから、ものごとを決めるには衆知を集めるために時間が必要だ。政府にAなる見解あれば都にBという見解がある。ものごとを民主的に決定するために時間がかかったことを批判するつもりはないが、すでに数か月の取り組みを展開してきているにもかかわらず、いまだ基本的戦略が定まっていないように見えて仕方がない。

 中味と形式という表現がある。中身は機能、形式はそれの表現である。尊敬する機械技術者は「機能の優れた機械の外観は美しい」と語られたが、これは、機械に限らず、人間が取り組んで生み出すあらゆる作物に通用する言葉である。緊急事態宣言という形式の中身をきちんと設計してないから、アクセルを踏むべき段階でサイドブレーキがかかってしまう。相手がよくわからない場合の行動の采配の力は、とりわけ関係者の「合意」にこそある。

 たとえば、事業者にとって生死がかかっている事業の休業という問題について、科学的かつ論理的な説明がなされないのは納得できない。密集・密閉・密接の3密なるキャッチコピーが登場して、感染が人から人なのであるから、飲み込みのよろしい人々は直ちにわかった心地になる。しかし、たまたま外れていないにしても、「感染経路不明多し」が堂々と報道される事態においては、科学的論理的に説明されているとは言えない。勘の政治である。

 東京都4月のデータでは、感染経路60%が不明だ。常識的には不明では説得できない。人と人の感染だから、とにかく人が3密にならないようにするというだけである。むしろ政治的問題としては、クラスター対策班が手薄であって、保健所も人手不足であって、聞き取り調査が不十分な点にある。感染経路を明確にするのは、感染症対策のイロハのイだと思うが、これがアバウトなままに置かれているのは全く理解できない。

 同様、世界的に悪名高い検査体制をどうするのか。安倍氏はPCR検査1日1万件を、倍増して2万件にすると語るが、4月9日時点で検査は1日4千件(NHK)でしかない。1日6千件が粉飾されている。

 さいたま市では2~3月でPCR検査171件、千葉市は700件。さいたま市保健所長は「病院が溢れるのが嫌で、検査対象の選定を厳しめにやっている」とコメント(日経4/11)している。東京の59歳女性は、「感染者に接触したがリスト未掲載なので申告して掲載してもらった。発熱37.5度になり保健所に相談したが、軽症なので自宅観察2週間と言われて検査してもらえなかった」(東京4/8)と新聞に投稿した。

 早期発見・早期治療は医療の原則だ。感染症の場合、検査・監視体制が不可欠で、人々に情報発信する透明性が必要である。「検査は誤判定もあるし、陽性でも8割は無症状か軽症」だから、重症重点に対処するのが厚労省の考え方らしい(日経4/11)。日本のデータは暗数が多く、国際比較できないというのが外国の感染症専門家の常識である。日本の常識は世界の非常識だ。

 わが政治家は問題先送り、官僚的答弁でその場をしのげばよろしいというスタイルが目立つが、感染症対策を見ていると医療崩壊の前に政治崩壊ではないのかと言いたくなる。緑のタヌキは嫌いだが、今回はそれなりに政治的問題点を浮き彫りさせた次第である。