週刊RO通信

和魂洋才からどこまで来たのか

NO.1340

 もう、そのときではない時から始まって、次のサクラの便りを聞く時期が近付いてきたが、永田町田舎芝居のロングランで、みなさまは、ほとほと愛想が尽きたのではなかろうか。募ったが募集した気ではないみたいな下手なセリフは聞き飽きた。しかし、なめられているのは野党議員ではなく主権者たる国民1人ひとりであるから、提灯持ち新聞のように、「政策論議をいたせ」という露天商と共謀のサクラはいたしたくない。

 政治に功労のあった方々を招待したのだから、みなさまのご芳名を公開するのがなぜ悪いか。みなさまのお陰で結構な暮らしをさせていただいている1人として、わたしも一言お礼を申し上げたい。また、功労者のみなさまは有象無象に文句を言われる筋合いはないのだから、この際、「参加したぞ」と名乗りを上げてくださればよろしい。こそこそ逃げ隠れていたのでは、せっかくの功労に泥を塗るというものだ。

 森友・加計から続く乱脈国会、憲法を変えようという高い志を持つ安倍氏である、憲法の精神や法律違反と目されるようなことをしていないのであれば、もっと歯切れよく、身の潔白を証明すればよろしい。きちんと応対しないから疑心暗鬼、結果的に首相の座を汚していることになる。年がら年中、会食を重ねて身内を固めても、「一億総身内」にはなりようがない。岸の末路、佐藤の末路、有終の美を飾れないのも一族の伝統か。

 日本人は意外にも国家意識が強い。儒教が入ってきたのが応神天皇の5世紀ごろとされている。平安朝中期の藤原時代に「和魂漢才」という言葉が登場した。徳川中期に伊東仁斎(1627~1705)の堀川塾で、儒教が日本的に形成されたという。「和魂洋才」が登場するのは明治時代である。しかし、日本的国家意識には独自文化を形成する意識が弱いみたいでもある。

 新渡戸稲造(1862~1933)『武士道』は講談調で面白いが、果たしてこれが本当に封建社会を支えた精神的柱であるかどうか、読めば読むほど疑問が沸く。これが、保守人士が憧憬の念を持つ精神なのであれば、ここ数年の無様な政治がおこなわれるわけがない。実際、竹越与三郎(1865~1950)は、そんなものあるものか、日本人的精神は義理と人情だけだと喝破した。

 敗戦後の民主主義の受容・理解についても、日本人的混沌的資質が尾を引いているようである。民主主義、基本的人権、主権在民によって、権力に圧迫されていた個人が解放された。上(権力)から下(国民)が解放されたのであれば、次なる国家意識は、個人が基盤となって、社会、民族、国家への流れで再建されなければならない。

 ところが、これ、とりわけ保守人士が吹聴するように「個人の原理」がきちんと理解されず、単純に利己主義に流れる傾向が強い。もちろん、保守人士が国民の利己主義を指弾する資格はない。なんとなれば、保守人士こそ名前だけの自由民主党を作り、その本質は自分党だとして憚らないのである。

 敗戦時の人々は、たちまち飢餓生活に放り込まれて、何がなんでも食べねばならない、無我夢中の戦後生活で立ち直った。敗戦までは、人々は権力者による国家的道徳に抑えつけられて悲惨な境遇に追い込まれたから、以前のような生活だけには戻りたくないという強烈な意識があった。民主主義の理解が中途半端であったにせよ、少なくとも民主主義という言葉が戦後日本の護符であったことは疑いがない。

 しかし、いつまでも封建的専制国家から民主主義国家へと正反対に転回した当時のオツムでいてはよろしくない。個人が解放されて、個人を立てるということは、他人の個人を侵さないことである。他人の個人を侵さず、自由な個人として社会生活を営むためには、自治の精神が確立されなければならない。つまり、わたしが社会であり、社会がわたしである。

 フランスにアンガージュマン(engagement)という言葉がある。自由・自治の精神でもって、意志的実践的に社会参加するという意義である。この精神・態度が確立しないから、似非政治家に好き放題やられる。政治家連中の不埒な仕業に対する「奇妙な寛容」が、日本的政治の文化である。桜が咲こうが散ろうが、きっぱり決然として安倍的なるものを許さない気概が必要だ。空気が変われば必ず日本は立ち直られる。