週刊RO通信

自由民主党の病膏肓に入る

NO.1271

 日本国憲法は敗戦から生まれた。GHQ(連合国軍総司令部)の後押しがなければ生まれなかった。仮に日本人が、従来の大日本帝国憲法を維持したくても、GHQがそれを許容することはありえなかったのも事実である。

 日本の降伏敗戦が認められる条件は、ポツダム宣言を受諾することであり、同宣言は、日本がデモクラシー国家に変わることを要求していたのだから、敗戦とデモクラシー国家に変わることはセットであった。

 1946年3月6日、内閣の憲法草案要綱が発表された。当時の議員が驚いたのは、「天皇主権」が「国民主権」に移ったことである。

 天皇主権は国体と呼ばれ、敗戦に至る過程で支配層がもっともこだわったのは国体護持である。ポツダム宣言受諾に当たって、降伏が国体に影響を与えないという留保をつけようとしたが、連合国は承諾しなかった。

 つまり、支配層は国民に向かって国体護持を絶叫していたのだから、「天皇主権」が「国民主権」に変わったことは、「国体」が護持されなかった。これが驚愕の第一の理由である。

 敗戦の玉音放送(1945.8.15正午)では「朕はここに国体を護持し得て」とあったから、帝国議会における日本国憲法草案審議では、当然ながら「国体が護持されたのか?!」という論議が喧しかった。

 「国民主権」は国家経営上の大転換である。それと共に、1人ひとりが「基本的人権」(fundamental human rights)を将来にわたって保障されることになった。生をうけた人は自由かつ平等である。

 大日本帝国憲法では、「基本的人権」はもちろん存在しない。誰もが天皇の臣下であり、「臣民の命は鴻毛より軽い」のであった。臣民から人民に変わることを意識して待ち望んでいた人々は少数であったが、デモクラシーは圧倒的な人々に支持されて戦後デモクラシー時代が始まった。

 敗戦までは、日本は「国家主義」である。「国民主権」を主張することは支配層によって許されなかった。それを主張する人は、党派性を持たずとも「アカ」呼ばわりされて、社会から排除された。

 自由民主党が憲法改正論を熱心に唱え始めたのは敗戦後20年前後である。日本国憲法に不満を持っているわけだが、当時は、「国民主権」「基本的人権」というデモクラシーの基盤を批判することはなかった。

 戦後デモクラシーが人々の意識に定着したと判断したのであろう。しかし、昨今の自由民主党の動向は当時とはおおいに異なっている。

 2012年に公表した自由民主党の「日本国憲法改正草案」は、「国民主権」「基本的人権」をいかにして抑え込むかを考えた力作! である。それは「個人主義」に出立する日本国憲法を、なんとかして「国家主義」の方向へ引っ張り込みたいという意欲に満ち溢れた内容である。

 言論活動面では、たとえば「リベラル」批判が露骨になった。自由民主なのだから、なにゆえリベラル批判をするのか。奇妙な具合である。すなわち、リベラル=個人主義であるから、個人主義を叩くのである。

 個人主義とは、個人の自由と人間的尊厳に立脚して、お互いに社会有機体を意義あるものにしようとするのである。個人主義は利己主義とは全く別物であるが、彼らは、両者を意識的に混同と同一化させている。

 デモクラシーをおかしくしているのはリベラルに原因がある。リベラルを除去した国家を作ろうという。彼らはリベラル抜きでもデモクラシーが成立すると詭弁を弄するわけである。

 つまり、個人の自由を基調とする個人の集団としての社会ではなく、家族を基礎として組織される民族共同体をめざすという主張である。だから、歴史的に否定された教育勅語に執着する。

 デモクラシーを直接的に否定するのは、さすがにまずいから、あたかもデモクラシー(自由民主)の看板を掲げて、本音は、限りなく「国家主義」へ突き進もうという戦略である。

 公正な選挙によって選ばれたはずの議員が公私両面において、好き放題の活躍! をやっている。リベラルでないデモクラシーは絶対にありえない。自由民主屋は羊頭を掲げて狗肉を売るとんでもない政治屋である。