2011/03
技術者教育の父 ヘンリー・ダイアー君川 治


[日本の近代化と外国人 シリーズ 3]


 写真は工部大学校があった虎の門交差点近くの工部大学校趾碑

 東京大学構内には建築家コンドルの立派な銅像があるが、ダイアーは見当たらない。平成10年(1998)岩手在住のスコットランド人彫刻家ケイト・トムソン女史がヘンリー・ダイアーの胸像を製作し、英国大使館から東京大学へ贈呈された。この胸像は工学部応接室に設置されているようだが、一般には公開されていない。同じ胸像はダイアーの母校ストラスクライド大学(アンダーソンカレッジの後進)へも寄贈されていると云う。


忘れられたダイアー
 ダイアーは工部大学校都検を9年間務め、技術者教育制度を整え、多くの優れた技術者を育てた。帰国して母国イギリスで工業教育の基盤整備に努力した他、日本研究の第1人者として多くの著作を残している。しかしながら何故か、札幌農学校に僅か9ヶ月勤めたクラーク博士に比べると忘れられた存在である。
 「ダイアーの日本」著者三好信浩氏は、ダイアーを我が国の近代化に貢献した恩人と高く評価しているが、ダイアーとクラークの知名度の違いを工学者と農学者との歴史認識の差であろうと説明している。工学者は過去の歴史より未来の技術開発の方が急務だからだろうと述べているが、少し違和感がある。
 北政巳氏はその著書で、1880年代にプロシャが普仏戦争に勝って急速に近代化・工業化する中で、日本政府は英国流モデルからドイツ流社会モデルへ傾斜し、工部大学校が東京大学と合併して東京大学工科大学となる過程で、ドイツ人学者たちによりスコットランド人学者の教育上の業績も消去され、ダイアーの功績も日本近代史から消されたと述べている。
 ヨーロッパとの技術格差を実感した明治政府指導者が、最初に取り組んだのは鉄道と電信であった。新橋―横浜間の鉄道敷設計画を策定した鉄道技術者エドモンド・モレル(英)は、工業化を進めるにはそれを推進する役所と技術者を養成する学校を設置する必要があると提案した。
 工部省が設立されると、統括する工部大輔には長州藩出の伊藤博文、この補佐に同じく長州の山尾庸三があたることになった。2人とも幕末に密航してロンドン大学でウイリアムソン教授に学び、その後、山尾はグラスゴーに移り、ネピア造船所で働きながらアンダーソンズ・カレッジの夜学で技術を学んでいた。
 工部省に技術者養成の工学寮(のちの工部大学校)が設立されると、教授の選定にあたった伊藤博文は自らの密航時に世話になったロンドンのマセソン商会に依頼した。
 マセソンは当時のイギリス産業革命の中心地にあるグラスゴー大学の土木・機械学講座ゴルドン教授とランキン教授に人選を依頼したところ、近代工学の父と云われるランキン教授が愛弟子のヘンリー・ダイアーを都検(教頭、実質的な校長)に推薦してきた。ダイアー(1848−1918)はグラスゴー生まれ。工場の徒弟制度で技術を習得しながらアンダーソンズ・カレッジで学び、グラスゴー大学に初めて設立された土木工学部を卒業したばかりの弱冠25歳であった。
 ところで当時のイギリスの教育は、大学は法律、哲学、宗教、医学、数学、物理学など高尚な学問の府であり、技術は工場の徒弟制度の中で学ぶしきたりであった。イギリスでは本格的な技術者教育がなされていない一方で、フランス・ドイツ・スイスなどイギリス産業革命を追いかける各国では、フランスのエコール・ポリテクニク、ドイツのベルリン工科大学、スイスのチューリッヒ総合技術学校など、基礎的技術教育や応用教育が整備されつつあった。ダイアーはこれらを研究・参考にしつつ、日本の工部大学校の教育計画を策定したと云われている。
 ダイアーのエンジニア教育の主眼は、専門分野の学力をつけること、実践力を磨くこと、専門職に直接役立たないような教養も学ぶことであった。工部大学校は1873年に開校し、基礎・教養教育、専門教育、実地教育をそれぞれ2年とする6年制とし、土木学・電信学・機械学・造家学(建築)・化学・冶金学・鉱山学の7学科が設けられた。後に造船学と紡績学の2科が追加されたが、9名の教授陣はすべてイギリス人で占められた。
 工部大学校は明治20年に東京大学に併合されて工科大学となるまでの、14年間に211名の卒業生を送り出している。卒業生は土木45名、鉱山48名、機械39名、化学25名、電信21名、建築20名などで、当時の産業界の要請傾向が覗われる。
 化学科の教授はダイバースで、ダイアーの後任の都検となる実力者だ。化学科一期生の高峰譲吉は、卒業後の1880年にダイアーの出身校である英国グラスゴー大学に3年間留学、タカジアスターゼ、アドレナリンの発明者となる。
 建築科教授コンドルは我が国西洋建築の基礎を築いた人で、設計した鹿鳴館や東京帝室博物館は現存しないが、ニコライ堂、旧岩崎庭園洋館、綱町三井倶楽部、旧古河庭園などが現存している。第一期生は辰野金吾、片山東熊、曾禰達蔵、佐立七次郎の4名。辰野金吾はイギリスに留学し、母校教授として後進の建築家を育て、自らも東京駅や日本銀行を設計した。
 電信科の教授はエアトンで、日本で最初のアーク灯(電灯)を灯した人である。多くの電信技術者、電気技術者、教育者を育てている。一期卒業生は志田林三郎1人であったが、彼はグラスゴー大学に留学してケルビン卿に学び、母校教授と工部省電信局を兼務した、日本の通信事業の育ての親である。三期生は藤岡市助、中野初子、浅野応輔藤岡市助は電灯事業(電球と発電機)に多くの実績を残した東京電力と東芝の創設者である。中野は東京大学工科大学教授で電気学会会長、浅野応輔は九州―台湾間の海底ケーブルを敷設した通信技術者である。
 土木科一期生の石橋絢彦は灯台学の権威、同じく一期生の南清は鉄道技術者、五期生田辺朔朗は琵琶湖疏水の建設やわが国最初の蹴上水力発電所の建設者である。
 鉱山科一期生の小花冬吉は八幡製鉄の建設、秋田鉱山専門学校初代校長、機械科一期生の三好晋六郎は卒業後イギリスに留学して造船学を学び工部大学校造船学科助教授、東京大学工科大学教授、工手学校(現工学院大学)初代校長で洋式造船学の先達。この他にも教育界、産業界、官庁で活躍した技術者たちは、とてもこの紙面には書ききれない。
 工部大学校が成功した要因として挙げられるのは、1)明治政府が殖産興業の担い手を育てる工部大学校を好意的に支援したこと、2)専門分野に優れた教授たちが、教育に非常に熱心であったこと、3)工部大学校の責任者山尾庸三がダイアーとはグラスゴーのアンダーソンズ・カレッジで顔見知りで、意思疎通が良かったこと、4)学生たちの実地教育場として工部省付属の赤羽製作所があり、洋式機械が充実していたこと、などが挙げられている。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)


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