週刊RO通信

嘘と政治家について

NO.1331

 政治の世界は、狭い意味では駆け引きが主流である。駆け引きと嘘はとても相性がよろしい。トランプ氏が米国大統領に就任して以来、フェイク(fake)がしばしば報道を賑わしたが、わが国政界においても昔から嘘に関する話はたくさんある。

 三木武吉(1884~1956)は、戦後、鳩山一郎(1883~1959)を擁して日本自由党を結成、鳩山内閣を成立させ、1955年保守合同、自由民主党を結成した立役者の1人である。氏の評価は「政界の策士」という。

 記憶に残る氏の言葉に「誠心誠意嘘をつく」がある。誠心誠意と嘘を組み合わせたところが、なかなか卓抜したレトリックである。わが思うところをひたすら主張して説得する。ただし、わが思うところが真実だとか、普遍性を有するならば上等だが、自己利益を狙っているのならば単なる嘘つきだ。

 そこで、わが思うところなるものを「国家国民のため」というように飾り立てる。かの幼稚園は純粋の! 日本国民を育てる立派な機関のはずであった。獣医学部も、国家のための医師を育てるのである。「国家国民のために」尽力なさった方々を招いて、日本人の心たる桜を愛でる。文句をつける方がおかしい。開き直れば、本音はこんなところであろう。

 60年7月、岸信介首相(1896~1987)が暴漢に刺された。暴漢は大野伴睦(1890~1964)の周辺にいた男で、岸が大野に政権を禅譲するとして渡した念書を反故にされた。約束を違えたのが理由だろうと推測された。岸にしてみれば、身の程を知らぬ大野ごときに禅譲する気はさらさらない、国家国民のために自分が首相になるべきであり、大事のための嘘だというわけだ。

 中曽根康弘首相(1918~2019)は86年6月2日、野党に対して「解散しない」と約束しておきながら、衆議院議員定数是正が実現すると直ちに解散に打って出た。自民党は追加公認含めて304議席獲得の圧勝であった。

 氏は、自民党総裁任期の1年延長をちょうだいした。対する石橋政嗣社会党委員長は「嘘つき」と選挙演説で厳しく中曽根批判を展開したが、空振りに終わった。社会党は大敗を喫して86議席に減り、委員長を辞任した。

 その後、首相は解散については嘘をついても構わないという発言をする政治家が増えた。英国では、首相が恣意的に解散できないように縛った。議会政治が王権に対峙して育ってきた英国では、議会政治を大切にすることこそが国家国民のための大義である。彼我の違いは実に大きい。

 嘘をついても許されるのが釣り師と小説家だという。「逃がした魚がこんなに大きかった」とホラを吹いても誰も怒らない、笑って聞いてもらえる。小説家は嘘を書くのだが、嘘を通して人生の真実をえぐる。これこそが「誠心誠意嘘をつく」にふさわしい。

 政治が駆け引きだとしても、そのために嘘を当然としてしまえば、言葉に信頼性がおけなくなる。疑心暗鬼から政界は乱れる。政界が乱れるならば政治が乱れる。人々が社会を作って維持してきたのは、相互信頼があるからこそである。「政治は芸術である」というが、政治家は釣り師や小説家ではない。人々の思いや願いが集約する政治が乱れれば社会もまた乱れる。

 デモクラシーの政治において、高い地位にある人が備えなければならない品位は、第一に国民の公僕の名に恥じないことである。第二に地位の名声を汚してはならない。第三に権威・権力にふさわしい仕事をしなければならない。政治「芸術家」に要請される倫理道徳は峻厳なものである。

 自分と異なる意見であっても、相手には自分の見解を述べる権利がある。もし、それが許されないのであれば、それはデモクラシー政治ではない。デモクラシーとはさまざまの意見が語られるからこそ成立する。他者の意見を聞かぬ態度は公僕の意味がわかっていないのである。

 名声を汚す事例は汚職である。権力者が清廉であるかどうか。誇り高い人は疑惑を招くことすらも警戒する。汚職の嫌疑が表面化した場合、汚職に手を染めていない人であれば、「説明責任を果たせ」と指摘されるまでもなく正々堂々と身の潔白を証明するだろう。なぜできないのか。

 中曽根氏は「政治家は歴史という法廷で裁かれる被告」だと気の利いた言葉を残した。自浄能力なき政界の政治家には無縁の言葉である。