論 考

「法の支配」を本気で考えたい

 ジェームズ1世(1566~1625)は、「国王は神に対して責任をとるので、国民に対しては責任がない」という理屈を振り回した。「王は法なり」というのである。

 それに対して、E・コーク(1552~1634)が、「国王は神と法の下にあるべきだ」として、議会によって王権を抑制した。これが後々「法の支配」という言葉の始まりとされる。

 サービス労働や過労死が問題になったころ、ある労働法学者が「法律を厳しくする」、そして「労働基準監督官を増員して取り締まれば解決する」と語った。

 「法の支配」論を単純に展開したわけだ。わたしは、失礼ながら反論した。「法なんてものは所詮紙切れに書かれた文字である」から、「働く人々が結束して、けしからん事態に対抗せねばならない」

 これは、50年ほど前の労働学者なら、誰でも語った言葉であるし、実際、働く現場は、組合活動が活発なときは、それが裏付けられていた。

 政治の現場も同じで、「法の支配」にあるはずの政府与党が好き放題をやる。法があっても、法に則って活動する気がない連中は少なくない。

 議会が始まる前に、新聞論説などでは「政策論議中心にやれ」と御託を並べるが、それは「法の支配」がきちんとしている場合の話だ。

  米国下院の民主党が、トランプ大統領のウクライナ疑惑を巡る弾劾調査に着手した。目先の政策論議のほうが国民受けする。だから弾劾に踏み切れば、民主党は国民からの批判を覚悟せねばならない。

 しかし、「法の支配」を無視した大統領を放置すれば、政治家倫理なんてものはかすんでしまう。それは、デモクラシーにとって致命傷になる。デモクラシーの原理原則に立った決断をしたといえる。

 米国議会、米国の政治動向への注目のみならず、わが国においても、「法の支配」についてじっくり考えたい。