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無責任国の結末――拝謁記

奥井 禮喜

 初代の宮内庁長官・田島道治「拝謁記」について新聞の扱いは、おおむね太平洋戦争に関しての昭和天皇の「反省」に焦点が当てられた。

 1952年4月28日に対日講和条約が8日に対日講和条約が発効し、5月3日に、講和条約発効と憲法施行5周年を祝う式典のメッセージに、昭和天皇が、戦争について「反省」という言葉を入れたかったという発言の記録である。

 52年1月11日には「…どうしても反省という字をどうしても入れねばと思う」とある。

 反省とは何を意味するのか。「拝謁記」からはわからない。たとえば東京新聞8月22日社説は「まず反省の中身とは何であったか。戦争そのものが天皇自身にも痛恨の極みだったと察せられる」と書いた。

 結果として降参しなければならないような戦争を始めたことの反省なのか、侵略戦争をしたことの反省なのか。それは読み手の主観に委ねられる。

 1931年の満州事変から37年の日中戦争へ、41年の対米英蘭開戦から45年に敗戦するまで、日本軍は他国領土で15年間暴れ回った。戦争を開始したのは時の権力者であるが、好むと好まざるとにかかわらず国民一般が戦争を遂行したのであるから、反省の中身を考えねばならない。勝った、敗けた、の問題ではない。戦争の原因・過程・結果のいずれについても歴史的に検討しなければならない。

武断外交は明治維新に始まる

 明治以来、日本は「富国強兵」政策を推進した。これは妥当ではない。少し考えれば、軍部はつねに膨張の一途であったが、富国というのは全然当たらない。ただしくは「貧国強兵」であった。

 最初の戦争が1874年の日清戦争である。なぜ日清戦争に着目するかというと、これが昭和の15年戦争の序章だからである。

 日本には、朝鮮への侵略意志は日清戦争以前からあった。

 征韓論を最初に唱えたのが木戸孝允(1833~1877)である。幕府を倒して新政府を組織したものの、相変わらず独立割拠の気風が強い雄藩の存在が危なくて仕方がない。木戸は、朝鮮へ出兵して、雄藩を動員し、その体力を消耗させようと考えた。

 西郷隆盛(1827~1877)は、維新後に士族の生活が困窮を深めて路頭に迷う状態であったから、戦争で士族に出番を与え、その勢いで天皇政権を士族独裁権力へ育てようという考えであった。

 両者の意図することは異なるが、いずれも国内政治を安定させるために、国民の視線を海外へ向けさせることにある。その手段として戦争を使おうというのだから、典型的な「武断外交」である。

 1871年、宮古島の54人が台湾に漂着し、原住民に殺害された。74年、西郷の征韓論にもっとも反対していた大久保利通(1830~1878)が、征台遠征で3000人の出兵を命じた。大久保政権に不満をもつ薩摩士族の目を外に向けさせる狙いである。

日清戦争

 日清戦争は1894~95年、日本と清国の間の戦争である。朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけとして、日本が朝鮮出兵し、同じく出兵した清国と衝突、8月2日宣戦布告した。日本軍が平壌・黄海・旅順などの戦闘で勝利し、95年4月に下関で講和条約を締結した。

 日清戦争の性質は、両国の朝鮮を巡る覇権争いであった。

 明治天皇は親政主義(天皇が自ら政治をおこなう)を求めていたが、日清戦争開戦には全然リーダーシップを発揮していない。天皇は「今度の戦争は大臣の戦争であって、自分の戦争ではない」と不快感を示した。伊勢神宮と孝明天皇陵への開戦報告の勅使を立てることも拒絶した。

 開戦当時、多くの日本人は日清戦争に無関心であった。出番を得た士族は熱狂し、義勇兵に志願し、抜刀隊を組織したりした。

 福沢諭吉(1834~1901)は、「日清戦争は文明と野蛮の戦争である」と論陣を張った。戦争をする野蛮を文明だと唱えることが野蛮なのであるが——巷では不況風が吹く。庶民は日々の暮らしに大不満である。新聞はジンゴイムズ(好戦的愛国主義)で煽る。ジンゴイムズは本質的に野蛮である。

 田山花袋(1871~1930)は、「維新で階級が打破され、士族が零落し、沈滞気分が長く続いていた。戦争で一気に排外的気風がみなぎって、戦争害悪論などは萌芽すらなかった」と述懐した。

 北村透谷(1868~1894)は、92年から雑誌『平和』を発行して、「戦争反対・平和を作ろう」と論陣を張ったが、読者が増えず12号で廃刊した。

 日清戦争に勝利すると、福沢は「去年来の大戦争に国光を輝かして、大日本帝国の重きをなした。恍として夢の如く、感極まりて泣く」という手放しの喜びようで、庶民の「一等国国民」という己惚れに拍車をかけた。

 日清講和条約締結後、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉が起こり、日本は、清から獲得した遼東半島を返還した。またまた世論沸騰した。「面目を潰された」「遼東半島奪取など欲ボケだ」「外交当局は総辞職せよ」などなど。

 3国の武力と戦う力はないから、戦果を譲った。かくして、力を蓄えるしかないという「臥薪嘗胆」論が国民的気風を形成した。ますますジンゴイムズへと傾斜した。

 日清戦争は勝利した。しかし、明治天皇が、「開戦について十分な論議がなされなかったのは不本意である」と発言したのは歴史的事実である。

 34年、信夫清三郎(1909~1992)が、研究成果としての『日清戦争』を著したが、「日清戦争を明白にすることは、中国・朝鮮の抗日運動に激励を与える」という理屈で発禁処分をうけた。日清戦争の総括もきちんとできていない。

 ここで忘れたくない文章がある。無実の罪で処刑された幸徳秋水(1871~1911)が書いた。福沢的なるものの対極である。

 ――日本人の愛国心は、日清戦争において、歴史にないほど、清国人に対する侮辱・蔑視・憎悪として噴出した。形容のしようがない。ほとんど清国4億の人々を抹殺せんがごときである。――

 ――軍人は国家を愛するというが、眼中に軍人以外の国民があるか。敵人に対する憎悪がいかに強くても、決して同胞に対する愛情を増加するものではない。――(『帝国主義』要旨抜粋)

 幸徳の危惧は、やがて15年戦争で十二分に示された。それだけではない、日清戦争から125年の今日、戦争責任を本気で考えないどころか、戦前を賛美するような政治家が大きな顔をしている。まことに剣呑である。

日露戦争

 もともとイギリスは、日本をロシアに対する防波堤として目論んでいた。日本もまた、中国大陸における自由度を確保するためには、後ろ盾がほしい。

 1902年1月、桂太郎首相(1848~1913)の内閣が日英同盟を締結した。

 満州と韓国に特殊権益をもつ日本と、清国に特殊権益をもつイギリスとが相互の都合を承認しあったものである。日本が、大海運国であるイギリスに艦船を建造してもらうのも、イギリスには大いに利益が上がる。

 イギリスは当時世界第一の国である。イギリスの年間粗鋼生産量590万トン、日本は1,000トンである。粗鋼生産量比較で5,900倍の国力差である。大日本帝国の人々は感涙をもって狂喜乱舞のありさま。各地で祝賀会、東京では提灯行列で祝った。

 当時、留学でロンドン在住の夏目漱石(1867~1916)は、義父の中根重一宛の手紙に、「ロンドン在住日本人が、林駐英公使に慰労品を贈呈するとして、5円も寄付させられた。同盟騒動は、貧乏人が大金持ちと縁組できて村中鐘太鼓を叩いて走り回るのと一緒だ。そもそも国運は貧富の懸隔によるのだから、誰もが豊かになられるように人を育てるのが先決だ」と書いた。留学費は月150円でギリギリ生活していたから、5円の寄付が痛かったのはもちろんだが、舞い上がっている日本人の姿が切なかった。

 日露戦争は1904年2月10日に宣戦布告した。

 原敬首相(1856~1921)は「日記」に、「少数論者を除けば、誰も戦争を好まぬ。しかし、戦争が日々近寄ってくる」と書き残した。

 1903年には、軍・民間において主戦論が高まった。東京帝大の7博士が、「対露即時開戦」の意見書を発表した。当初財界は、「日露開戦は心神喪失、虚妄の言」として反対論であったが、同年10月には開戦支持に回った。経済が不活発で社会的閉塞感が漂う。ぶつけ所を求めるような気風であった。

 明治天皇は、「今回の開戦は、朕が志にあらず。しかれども事態すでにここに至る。これを如何ともすべからざるなり——事万一蹉跌を生ずれば、朕何をもって祖宗(祖先)に謝し、臣民に対するを得んと、たちまち涙潜潜として下る」と語った。

 太平洋戦争敗戦後に、敗戦時首相の鈴木貫太郎(1867~1948)が、「誰も戦争したくなかったのに、いつの間にか戦争に突入してしまった」と発言した。

 これでは、戦争はあたかも天変地異のごとしである。

 日清戦争も日露戦争も、表向きは、韓国の独立を支持・支援するとした。しかし実際は、韓国を植民地にした。韓国を植民地にした。1910年8月、日本は、韓国の統治権を完全かつ永久に日本に譲渡することなどを規定して属国化し、朝鮮総督府を置いて支配した。しかも韓国を「武断政治」で支配した。100年過ぎても、それに対する怨念が消えないという事実を日本人は直視せねばならない。

 日清・日露戦争を推進した人々は、「植民地獲得のための国家的拡張策ではなく、自国防衛のためである」というが、それが本音を隠す厚化粧にすぎないことは歴史が証明している。

張作霖爆殺事件

 「拝謁記」51年6月8日の記録では、昭和天皇は、「張作霖事件の処罰が徹底しなかったことが後年陸軍の綱紀のゆるみを招いた」。52年5月30日の記録でも、「(軍部内の)下剋上を早く根絶しなかった」という発言がある。首謀者に対する処分が不徹底であったために軍部暴走に掉さしたと後悔している。

 張作霖爆殺事件は、1928年6月4日、奉天駅東北2km地点で、関東軍の河本大作大佐が命じて、奉天軍閥総帥・張作霖が乗る列車を爆破し、殺害した事件である。政府は真相を隠すために満州某重大事件と呼んだ。

 田中義一首相は、10月4日に詳細な調査報告をうけ、12月24日、天皇に「厳然たる処分をする」と上奏した。しかし、陸軍内部は厳罰反対で、河本大佐を29年4月に第九師団司令部付に転任で処理した。ことの次第を知った天皇は田中首相に対して露骨に不信の発言をした。29年7月2日、田中内閣は総辞職した。

 昭和天皇の言葉からすると、「戦争はしたくなかった。しかし、軍部内の下剋上で戦争を阻止できなかった」という流れになる。

 下剋上とは何か。組織において、下位のものが上位のものの地位や権力を侵すことである。下は上に従ってこそ組織規律が保たれるのであるが、下が上に従わない。要するに、軍隊という組織の形があっても、組織として機能していないというわけだ。

 下剋上の下とは、会社でいえば中間管理者層である。彼らこそが組織を実際に動かしている。官僚制度における中核層である。上層部が持つ権力は中核層に比較すればはるかに大きい。しかし、中核層が上層部に忠実に従いそれぞれの立場で奮闘するからこそ上層部の権威・権力が発揮できる。

 昭和天皇が主張した下剋上とは、中核層が上の権威権力に唯々諾々と従わない。そればかりか、中核層が結託して、逆に上層部を自分たちの意のままに動かしていたという意味である。下剋上なる事態が生まれたことに対する「上」の責任論を看過できるわけでもない。

 1931年の満州事変では、「満蒙は日本の生命線」であると呼号した。満蒙を守らなければ朝鮮が危ない、朝鮮が危なければ日本が危ないという論法である。これをただしく表現すれば、国家拡張・侵略政策をとる以上、果てしない戦争拡張の道を突き進むしかない。日清・日露戦争の流れに沿った結果が満州事変から太平洋戦争敗戦までの、日本軍国主義がたどった歴史である。

無責任国の無責任な戦争

 大日本帝国憲法によれば、天皇は国の元首であり、統治権を総攬する。陸海軍を統帥する大元帥である。

 憲法の表向きでは天皇は神様=オールマイティである。しかし、支配層が、本気で天皇のオールマイティを信じていたであろうか。むしろ、天皇を神様に奉って、それを信じているポーズをとりつつ、自分の権威・権力として都合よく利用していたにすぎない。そのご都合主義が、軍部だけではなく、政治を支配する人々のなかにはびこっていた、と考えても外れてはいないだろう。

 逆にみると、国民を統治するために、人間力ではできないから神様を担ぎだす。神様を担いだ以上、他国に降参することはできない。神様が君臨する神の国が人間の国に敗けるわけがないからである。神様でないものを神様として、国民を欺き続けたツケが15年戦争の敗北である。

 もちろん、昭和天皇が下剋上に直接の原因ありとみても不思議はないが、神様が君臨する神の国だというような手品を弄していたのは歴史的事実である。存在するが存在していない存在を統治権の総覧者とし、陸海軍の大元帥とするような政治機構には、人間の国の「責任」がない。

 無責任国の無責任な戦争の総括はいまだなされていない。これが、「拝謁記」を読んだ筆者の感想である。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人