週刊RO通信

働く人々の双肩にかかる政治・社会

NO1312

 参議院議員選挙が終わった。わたしも昔は候補者を担いで走り回った。目に見えない他者の心に働きかける苦心は、体験した人でなければ分からない。選挙活動にかかわった皆様、大変ご苦労様でした。

 近代日本を概観すると、明治ナショナリズムから大正デモクラシーへ、そして戦後デモクラシーから、いまは明治ナショナリズムへ逆流するような雰囲気にある。剣呑である。日本人の歴史的政治意識が問われている。

 社会・政治意識の低さが封建時代からの伝統的体質である。だから封建時代が長く続いたと考えれば、その意識的慣性を動かすのは大仕事だ。選挙活動は社会・政治意識を変えていくための、1つの大きな挑戦である。

 比例区の連合推薦候補は立憲・国民民主合わせて10名、うち8名が当選した。比例・選挙区で両党合わせると23名当選。民進党時代の32名に及ばない。緑のタヌキに化かされた後遺症が依然として残っている。

 候補者を担いでの選挙活動は勝利しなければ残念無念であるけれども、大きく見れば社会的結びつきを促進するための事業である。畑を耕し、種をまく、わがデモクラシーを育てるために努力しよう。

 わが国に、無産政党が産声を上げたのは1925年である。無産政党とは、確たる生産手段をもたず、賃金によって生活する労働者、小農、小生産者、小商業者などに立脚した政党である。働く人の政党である。

 最初に立ち上げたのは農民労働党であるが、ただちに結社禁止で潰された。しかし、めげてはいない。翌年、労働農民党・社会民衆党・日本労農党が立ち上がり、最初の普通選挙となった1928年総選挙では8人当選させた。

 選挙は3バン(地盤・看板・鞄)である。鞄、資金が決定的に不足している。ひたすら言論とビラで戦ったが、これとて権力による抑圧を食らう。理論も未熟、組織も未整備であった。

 当時選挙区122、無産政党は61区に候補者を立て、25選挙区で選挙協定がつくられた。19区で候補者を統一した。無産政党の合計得票49万票、組織人員67万人を下回った。無産政党同士の共闘が不十分であった。

 ところで、地域の農民運動では目覚ましい事例がある。群馬県新田郡強戸村(現太田市)では、1920年ごろから小作人組合を組織し、25年には村会議員12名中8名を小作人代表が占有し、村長も獲得した。

 村税負担は地主に重たく、子どもの学用品を支弁、自転車・荷車税を半減するなど小作人組合らしい政策で10年近く圧倒的な支持をうけた。

 1920年代の無産政党が掲げた主張は、①政治的自由の獲得、②農民労働者の負担軽減、③軍備縮小、④中国山東省出兵反対、⑤兵士・家族の待遇改善などが共通していた。しかし、国は1931年満州事変から著しく軍国主義へ傾斜し、無産政党は力及ばず蹴散らかされた。

 それからざっと100年後の現在、組合組織率は17%程度であるが、働く人は社会の圧倒的多数である。働く人が明確な社会的勢力として台頭しなければ社会の活力は生まれない。これをいつも念頭において活動したい。

 比例区で、立憲民主が729万1324票(15.87%)、国民民主が317万670票(6.90%)獲得した。短期間に立ち上げた山本太郎氏率いるれいわ新選組が207万6275票(4.52%)の大奮闘をした。ここにも、両党・連合ともに学ぶべき視点が示唆されている。

 政治は本来、極めて人間臭いものである。今回の選挙でも巷では組合嫌いや組合を敬遠する声が聞かれた。そこには少なからぬ無理解と誤解があるが、背景には多くの組合が官僚組織化している事情がある。

 組合機関の活動が組合活動だと信じ込むならば、組合は大衆運動の舞台から後退するばかりである。組合の選挙活動を嫌う組合員が少なくないが、自分たちの声が政治に届くのが嫌な組合員は存在しない。要するに、選挙活動に限らず、組合活動に対して組合員が隔靴掻痒の思いを抱いている。

 組合員に限らず、人々のアパシー(政治的・社会的無関心)が指摘される。それは原因ではなく、結果なのだという視点に立ちたい。政治に対してだけではなく、各人が孤立的気分を抱えている。職場に組合活動を打ち立てたい。職場を耕してこそ、まく種が育つのである。