週刊RO通信

軍事力依存外交が招く知的退廃

NO.1300

 ロシア・北朝鮮首脳会談がおこなわれた。報道だけでは成果の中身はわからない。1つだけは明確だ。小国の北朝鮮が米中ロの3大国を相手に堂々たる外交! を展開している。ベトナムには古来、「トラと水牛が衝突すれば蚊が死ぬ」という言葉があるそうだ。とばっちり食らう蚊とは志が大いに異なって、大国に独立・自主的外交で挑む。

 今日の国際紛争は単純に括れば、富と勢力(領土拡大もまだあるが)の争いである。いずれにせよ、国内政治が円転滑脱なのにわざわざ紛争を引き起こす政治家はいない。国際紛争の根源は国内政治にありといえる。

 その理由は簡単である。権力を掌握した連中は、絶えず権力を強化する運動をしていないと、既得権力を維持できないという切迫感にとらわれている。国内が平和であろうとなかろうと権力争奪戦はえげつない。

 権力のトップは、勢力争いしている相手に対してはもちろん、自分を支えている身内の動向にも安易に気が許せない。敵は本能寺にあり、寝首を掻くことは少なくない。自分以外は敵、常在戦場という次第である。

 政治家と官僚の関係も安閑としていられない。わが国では官僚による忖度が目立ったが、これ、見方を変えれば、民間企業のパワハラと同床である。人事で首根っこを押さえられている官僚の生き残り防衛戦術だ。

 権力の中心と周縁の関係をみれば、メディアの根性がいまひとつとはいうものの、あら捜し能力は消えない。大衆が惰眠を貪っているなどと油断していると、いつ、どこからしっぺ返しくらうかわかったものではない。

 一言すれば、権力者にとっては、視界360度、見渡す限り油断のならない連中ばかりなのである。だから、権力者は、メディアに対する目配りが神経過敏にならざるをえない。心理的に追い詰められているといえる。

 これらはモグラ叩きみたいなものである。もう少し効率的かつ効果的な方法はないものか。直接見えず、にもかかわらず、じわじわと人々の気持ちをとらえる戦術はないか。古来、もっとも効果的なものがある。

 いわく、「恐怖政治」である。恐怖政治とは、政治的敵対者に難癖つけて投獄するとか、殺戮するとか、徹底して弾圧する作戦である。明治以来のわが国においては、一家言ある人士は常にそれを警戒せざるを得なかった。

 時流れて今日、一応、デモクラシーであるから、当時のような露骨なやり方はできない。かつて「鞭的」やり口であったとすれば、今度は「飴的」やり口である。それも、外に敵を作って恐怖の対象とし、それから皆さんを守りますという、迂回作戦である。かくしてナショナリズムを煽る。

 人々が、外敵を恐怖し憎悪してくれるならば、権力者として極めて好都合である。外敵の恐怖によって権力者は権力行使の自由度が拡大する。

 北朝鮮に対する経済制裁は昔の城の水攻めと同じである。直接武器を駆使せずともやがて相手は干上がる。制裁されている側からすれば、まさに戦闘真っただ中である。この状態で、全面的に核兵器を放棄することは、無条件降参と等しい。その後の確約も何もない状態で核兵器放棄などと言えるわけがない。それは、攻めているほうも先刻承知のはずである。

 外交のあり方としては、全面的に相互不信感の状態において、仮に一挙解決を求めるならば、双方が了解できる双方の案を提示しなければならない。

 それができないのであれば、わが新聞社説が掲げる「北の核兵器放棄が前提だ」というような議論が的外れであることは誰にも理解できるであろう。一挙解決が無理な相談であれば、相互不信感を除去するための、段階的プログラムが不可欠である。その努力を本気でやっているか。

 せっかく双方接近して糸口にたどり着いたのに、一挙核兵器廃絶論をぶつけるのは外交としての誠意を欠く。相互生存の原点を押さえねばならない。

 軍事力による平和論は平和思想ではない。さらに、強い武器をもつほど外交における知的能力が減退するのは、歴史が証明している。

 しかも、軍事力展開が大きいほど、それから撤退するのは経済的・組織的に厄介である。北朝鮮を現状のままにしておくことが、内政上・軍事上の好都合だという本音が垣間見える。「聖戦」なんてものは存在しない。捨て身の北朝鮮が、周辺国外交の欺瞞を露見させつつあるようにも見える。