週刊RO通信

資本主義は倒れる!

NO.1284

 年末年始になると、いろんな視野・視点から世の中の課題についての問題が提起される。1年間の総括と新しい年への展望が語られる。新しい年への期待を膨らませる人も少なくないであろう。

 昔は、「禁酒禁煙」の誓が書初めの墨が乾かないうちに破られたとか、今年はやるぞと日記を始めたものの、3日もすれば顧みられなくなったという漫画が多かったが、そういえば、最近はお目にかからない。

 皆さまがリアルになられて、年改まったものの、わが気分改まらずというあたりだろうか。実際、年は改まったが、天下国家、社会の風潮がガラガラポンの新規まき直しとはいかないものだ、残念ながら。

 高浜虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」という俳句は、リアルである。それでも、貫く棒の如きもののありようについて、下手な考えであっても、考える意義は十分にある。考えないよりもはるかに上等だ。

 資本主義が確立したのは産業革命によってである。1760年代のイギリスに始まった。商品生産が経済を支える基盤である。生産手段を持つ資本家が、労働力以外に売るものを持たない労働者を雇って商品を生産する。

 資本家は、生産した剰余価値を利潤として入手し、さらに新たな投資をおこない商品を生産する。しかし、大企業の内部蓄積は拡大する一方であるのに、新規事業が続々登場するという事情にはない。

 資本主義の理屈からすれば、投資が不活発なのは、ひいては資本主義自体が活力を失っている。1980年代に、新自由主義が台頭して、グローバリゼーションと規制緩和が推進されたが、効能よりも危機が呼号されている。

 危機の本質が何かというと、「格差」である。わが国では営々と積み重ねてきた福祉社会が危ないというところまできた。新自由主義なるものは「自由放任」に舵を切ったのであるから、貧富の格差が拡大したのは必然である。

 アダム・スミス(17231790)は、『諸国民の富』において、平等な社会で1人ひとりの利己的活動が総合して社会的善を生むことを想定した。しかし、経済的権力は各人の平等について本気で考えるだろうか。

 資本力、生産力の大きいものが経済社会を動かす。大企業経営者は産業の支配力であるから、人間社会の永続性をつねに念頭におかねばならないが、果たしてその責任を担う見識や胆力をお持ちであろうか。

 社会福祉諸制度は、それがどんなに不完全にみえても、資本主義の自由放任に走りやすい傾向に対する不動のバラスト(重し)である。社会福祉が危ういといわれるところに、社会の後退傾向が示されている。

 スミスがいう利己的とは、「自分自身の生活をよりよくしようという各人の自然的な努力」を意味している。それが全体として総合されて社会は豊かになるという視点である。誰でも共感するだろう。

 ところで実業家には、「福祉国家」が個人的創意工夫や冒険精神を削ぐものだと考える人が依然として少なくない。このような考え方が支配すれば、ガンガンに働ける間しか、人は社会的に存在できなくなる。

 スミスはまた、社会的分業の重要性を指摘した。各人バラバラに自分の生活の要に立つものを作るのではなく、各人が得意を生かして分業の成果を上げることによって、社会全体に貢献するというのである。

 分業が成立し、それが効果的に機能する社会は「協働」の社会である。各人が得意を生かす。さらに自分の専門性を向上させることが社会の進歩に貢献することは疑う余地がない。

 自分が関わる仕事を精一杯やることが社会の有益であると確信して働く人が多い社会は健全に育つであろう。「働き方改革」が標榜されるが、健全な働き方を破壊してきたのは事業経営の権力を握る人たちではなかったか。

 資本主義というイカは、黒い墨を吐く(マーシャル)、赤い墨を吐く(マルクス)、ピンクの墨を吐く(ケインズ)という例えがある。黒は発展する、赤は倒れる。ピンクは、「資本主義は絶えず支えていないと倒れる」という。

 資本主義は絶対不倒ではない。制度というものは人が運営する。運営する権力を持つ人々が、ひたすら利益蓄積しか考えない行動に徹する結果、イカが赤い墨を吐く可能性は決して少なくないのである。