週刊RO通信

復古調イデオロギーの行き詰まり

No.1281

 12月14日、沖縄の辺野古で土砂が投入された。11月の沖縄県知事選で、県民が辺野古基地反対の意志を鮮明に示したにもかかわらず、政府はまったく民意を聞く耳をもたない。寄り添うとは無視する意義である。

 1996年に普天間基地返還に合意したのが出発点とされるが、基地返還というのであれば、常識的には基地が縮小されると考えるが、現実は縮小どころか、規模も基地「占拠」時間も拡大する気配である。

 わたしは毎日のように日本海を眺めて育った。好天で紺碧の海が美しいと感じたことも少なくないが、やはり厚く垂れこめた雲と重たく厳しい波頭の日本海という印象が強い。

 40年前、はじめて沖縄に行った。透き通る美しい緑色の海にしばし感嘆して言葉が出なかった。その海を埋め立てるという美的センスのなさに、驚き、あきれ果て、憤りを禁じ得ない。日本的伝統は自然尊重ではなかったか。

 わが国が戦後の廃墟と混乱から立ち上がって、一気呵成に高度経済成長を手にしたのは1970年前後である。一方、全国で公害という、人間と自然を破壊する行為が大問題になった。

 しかし、当時も行政が直ちに公害放逐に立ち上がったのではない。事実を突きつけられても見えないふりをする。反論のためのデータをねつ造して責任回避を図ったりもした。その体質の淵源を辿れば、明治時代に至る。

 1888年には足尾銅山の鉱害が露見した。衆議院議員の田中正造(18411913)が天皇に直訴(1901)もした。しかし、専門家調査なるものはインチキで、1907年に渦中の谷中村は壊滅、村民は離散したのである。

 1969年に東京都が公害防止条例を制定したが、政府は気に入らない。生活環境保護を最優先しすぎる。国の法律より厳しい基準だというわけで、陰に陽に都に圧力をかけたが都は踏ん張った。アメリカは国家環境政策法を制定した。軍事活動も含む公共活動について環境アセスメントを義務付けた。

 1970年の「日本公害地図」は、地図に書き込めないほど公害が全国的に蔓延していた。当然ながら反対運動も世論も決定的に高揚した。ついに政府は「経済最優先」の方向転換をせざるを得なくなった。

 同年11月の第64臨時国会で公害対策基本法が全面改正された。

 72年6月、ストックホルムで国連人間環境会議が開催された。会議で審議されたのは、環境に関する権利と責任、天然資源・野生生物の保護・有毒物質の排出規制、海洋汚染の防止、(途上国の)開発の促進と援助、人口政策、環境教育、環境基準の設定、大量破壊兵器の除去と破棄の合意への努力などである。6月5日が「世界環境の日」と決定された。

 席上、公害先進国として有名をはせた日本代表・環境長官の大石武一氏が、「日本は経済成長に加担しすぎた。人間優先へと政治の方向を大きく変える」ことになったと演説したのである。

 市民の公害反対運動が実ったのであるが、大石演説は運動してきた多くの人々からは、当たり前である。いまさら格好つけても、という憤りが容易に収まらなかった。が、ともかく当たり前の方向へ舵を切ったのである。

 理屈をつければ、明治以来の産業優先、ひいては官(お上)優先の政策を市民が変えさせたのである。市民の声が政治を動かしたのは、わが国のデモクラシーがようやく、それらしくなったという見方もできた。

 沖縄に話を戻そう。環境問題の視点からすると、いま政府の態度は、1969年アメリカの国家環境政策法の精神よりも後退している。国家の安全を守るのだからという理屈で問答無用の態度を続けている。

 かつて政府が東京都公害防止条例を潰そうと企てた時点と同じ思考レベルである。外に敵を規定して、その脅威を大声疾呼することによって、市民生活の困難を無視する態度の繰り返しである。

 安部一派は愛国心を振り回すのが大好きである。国際時代に国家主義的トーンを高めるのは、まさに旧に戻す思想である。狭量な愛国心を振り回すのは、自分たちが未来に向けて現状を開拓する見識(知恵と力)をもっていないからである。ひたすら現状を継続して、行き詰れば「はい、さようなら」という無責任政治家の態度そのものであることを指摘しておこう。