週刊RO通信

デモクラシーを軌道に乗せよう

NO.1241

 大変な時間を要したが、ついに財務省が、いわゆる森友決裁文書に書き換えがあったことを認めた。もちろん、書き換えではなく、やってはならない不当な「改ざん」をしたのである。

 1つ嘘をつくと、嘘をごまかし続けるために次々に新たな嘘を発明しなければならず――嘘で固める――という仕儀になる。まともな社会人であれば誰もこんなバカバカしいことをしたいわけがない。

 公明党山口氏が「麻生氏は説明責任を尽くせ」と語った。説明責任を尽くすのは当然だから、山口氏発言は当然であるが、佐川宣寿国税庁長官が当時の責任を取った(取らされた)段階だから麻生氏を突き放した意味もある。

 ただし、与党としての公明党山口氏が直接的関与をしていなくても、問題発覚当初から状況としては、限りなく黒に近い灰色だったのは天下周知であるから、そもそも静観していたことに対して批判が起こるのは仕方がない。

 このように1つの嘘は、嘘を重ねる主体者以外にも、関係する周辺を巻き込んでしまうものだという苦い事実である。昨年から議会において膨大な時間が消費されたことについて、自民・公明の諸君は猛反省するべきだ。

 刑法において――疑わしきは罰せず――であることは論を俟たない。だから疑惑を掛けられた関係者が弁解するのは当然の権利だけれども、疑惑解決のための弁解でなく、「疑惑隠し」に走ったことは間違いである。

 しかもその方針が何に依拠していたのかというと、議会で圧倒的多数派を占めていることにあったのは疑いがない。議会で多数派を占めているのをいいことに――時間が解決する――という態度を取ったのは極めて悪質である。

 道徳倫理的に悪質という以上に、この間、議会の権威を決定的に貶めた責任は極めて大きい。なんとなれば、多数派であれば黒を白とさせうるというような気風を蔓延させてしまった。議会の権威失墜の責任は大きすぎる。

 野党が、内閣総辞職を主張するのは至極当然である。議会の権威を無視するような議会人(?)には、いかなる法律であろうとも審議する資格がない。わたしは与党的永田町の常識を絶対に許容しない。

 考えてもみてほしい。外国の識者が日本の政界の体たらくを見て、間違ってもデモクラシーの国であると認識するわけがない。この間の国際的信用の失墜は顧みて無念残念至極である。

 今年は明治150年で、政府与党の諸君は、明治のもっとも輝いた部分に光を当てて国民的誇りを高めたいらしいが、諸君がやってきたことはその輝きに泥を塗ることでしかない。

 いわく、働き方「改革」、いわく、人つくり「革命」などの言葉が空疎を通り越して、ぼろ隠しの厚化粧だということがはしなくも露見した。嘘というものがどれだけ各方面に悪影響を及ぼすか!

 しばしば主張してしつこいのは承知でまたまた主張するが、デモクラシーというものは、いかに立派な憲法を掲げていようとも、それだけで確立できるものではない。1人ひとりが憲法を体現せねばならないのである。

 短気なことにかけてはおそらく世界一である日本人的性質からであろうか、議会での精緻丁寧な議論よりも結論を急ぐ気風が強い。ために「剛腕のリーダー出でよ」というような風潮が2000年代にとりわけ強くなった。

 国民生活の基盤である政治を運営する人々に対するそのような気風が強いのは仕方がない面もあるが、そもそも国民が全面的に政治を委託しても大丈夫な政治家はいつの時代にも決定的に少数派であることを忘れたくない。

 まして、たまたま権力を掌握している政治家が、いわば天下国家のための采配で物議を醸すのではなく、目下露呈している――汚職――は、その性質において極めて矮小な「つまみ食い」の類である。

 犯罪的行為に大小を取沙汰する意味はないけれども、矮小な犯罪をなすような人間が大きなスケールの政治家であるとはいえない。逆にいえば矮小な人間だから矮小な犯罪をなすのである。

 本通信(No.1238)で、松山のタクシードライバーさんと怪しからん政治に対して「何としても主張し続きにゃあいかん」と意気投合したことを書いたが、わたしは改めてその決意を確信している。