週刊RO通信

人権・歴史・憲法

NO.1233

 1920年に設立されたアメリカ市民自由連合(略称ACLU=American Civil Liberties Union)は、言論の自由を中心に人権を守る活動を展開している最も影響力の大きいNGO(非政府組織)である。

 年会費40ドル(4,440円)で少し前まで50万人を組織していたが、このところ急激拡大して、150万人になったそうだ。理由は、かのトランプ氏にあると見られている。

 「トランプ氏ほど、人権を顧みず、歴史、憲法の理解が乏しい大統領はかつていなかった」という危機感がアメリカの心ある人々の加入を促進したという次第である。とはいえ、わたしたちにとっても他人事ではない。

 なにしろ、こちらの安倍氏も負けてはいない。むしろ先輩格だ。モリ・カケ問題の登場人物も、新たに国有地譲渡大サービスが発覚した日本航空学園の周辺でも、復古的ライト・ウイングの人士がちらちらする。

 安倍氏再登板以来、氏が重用し、そして降板した復古調政治家の言行録を見ても、はたまた巷でヘイト・クライムが大いに盛んになったのも、氏と無関係であると切り捨てられるものではない。

 人権が問題になるのは当然ながら760年も続いた封建社会の本質について理解ができていないからであり、明治維新から敗戦までの間、言論をジャンジャン抑圧と弾圧した歴史を真面目に考えていないことを意味する。

 個人の人権を抑えつけた国家主義は、日本国憲法によって主権在民のデモクラシーに代わった。これ、まさに政治体制が180度ひっくり返ったのであるが、安倍氏一派は、それを認めたり受け入れたくない態度が露骨である。

 歴史と憲法の理解が乏しいのはもちろんだが、彼らは人権という考え方を認めたくないらしい。とはいえ、自分の人権は確保したいのである。すなわち自己中心主義で、以て、他者を差別したがるのだから始末が悪い。

 人間は生まれながらにして尊厳=人権をもっている。人間は、国家が生まれる前から、自由で平等な存在だった。人々は生命を維持し、自由に生き、幸福を追求する方法として国家を作ったと考えるのが至当である。

 つまり国家があって国民があるのではなく、人民がいて国家を作った。国家の主人公は人民である。国民が国家に従属するというような国家主義の考え方はデモクラシーではないから、否定されるのである。

 ところで、トランプ氏や安倍氏は自分が国家に従属しており、まして政治家であるから、国民の僕(public servant)として使い走りだろうがなんだろうが粉骨砕身尽力すると考えているわけではない。

 意識しているか、していないかは不明だが、お二人さんは自分が国家だと考えているらしい。自分が国家であり、国民は国家に従属するべきだから、自分の言うことを聞けとする。他者のいうことはほとんど聞かない。

 幼児が「ボクがいちばん!」と言うのは、笑ってすませられるけれども、大人がこれをやってはお仕舞だ。その地位は国家権力そのものを体現するのだから、お二人さんは昔の専制君主の真似事をしていることになる。

 イギリスの「マグナ・カルタ」(1215)に始まって、アメリカ独立宣言(1776)、フランス革命(1789)へ、人民が自由な国家をつくるべく闘い続けた。いつの間にか国家の主人公が人民ではなくなっていたからだ。

 これ、国家=権力が個人の自由権を侵さないようにする「自由国家観」である。しかし、自由放任では結局人々の生活が円滑にいかないから、生存権の思想が登場する。完全雇用で人々の生存権を確立しようとするのである。

 人間らしい生活を保障してこそはじめて自由の意味がある。この考え方が「社会国家観」といわれる。昨今、われわれが追い求める人権とは、生存権を確保した自由なデモクラシー国家である。

 さて、社会国家観は先進国では20世紀に入ってから進歩した。わが日本国憲法においては、はじめから自由国家観と社会国家観が盛り込まれている。これ、先人のざっと800年の苦闘と知性の歴史の賜物である。

 基本的人権が確立しているとは、国民1人ひとりが自他の「尊厳ある生き方」を確信できることだ。明治維新は尊厳ある国家を追っかけたが、尊厳ある個人を放擲した結果、国の崩壊の淵に至った。くれぐれもご用心。