NO.1611
4月19日(土)朝日新聞に、「憲法生死の分かれ目」と題する憲法学者駒村圭吾氏のインタビュー記事が掲載された。ここでは、駒村氏の所論のあれこれではなく、インタビューの趣旨を利用して、わたしの持論を述べたい。
――戦後80年の歩みは、権力の統制や法の支配、人権の尊重を掲げて生まれた日本国憲法の歩みとほぼ重なる。度重なる危機にさらされながら、生き延びてきた憲法の「現在地」をどう見たらよいのか――という問いかけだ。
わたしは、まず、この問いかけに引っ掛かる。憲法が歩むわけはないし、憲法が死ぬわけもない。このような擬人法の使い方をすれば、読者が、「自分自身が問われている」という思考から外れて、客観的という他人事の視野にはまってしまう。
あえて言うが、そもそも昨今、日本国憲法に親しんでいる方々がどのくらいおられようか? 憲法をしょっちゅう睨みつけているのは、実は、憲法をどうやって変えてやろうかと考え続けている方々だろう。この方々は、憲法に触れ続けているのはいいが、性根が反民主主義である。憲法に親炙するのではなく、叩き潰してやろうと虎視眈々なのだから歓迎できない。
もちろん、記者が日本国憲法を大事にしたいと考えているのはわかる。しかし、どうも他人事だ。大正時代の青年たちは民主主義をよく勉強したらしいが、いわゆる大正デモクラシーの推進力にはならなかった。なぜなら、彼らは「教養」として学んだだけだ。直後に、日本はどんどん戦争国家へと突き進んだのであった。
わたしは、日本国憲法より2歳年上だが、憲法を意識し始めたのは憲法誕生10年後あたりであるから、「人間の尊厳」を掲げた憲法が登場した時期の強烈な感動は持ち合わせない。しかし、憲法が暮らしの中でどのように生かされてきたのか、その歴史を体験的に振り返ることはできる。
1960年代は、労働組合の勉強会でも、憲法、労働法は必ず講座として扱われた。労働法を講義する大学教授は、最後に必ず、「憲法にせよ、労働法にせよ、それを実現していくのは君たちですよ。法律なんてものは、所詮、紙に書かれてあるだけだから」と話されたものだった。
当時は、「デートの約束があるのに、突然残業を命じられて頭にきた」というような若者の声が少なくなかった。好きな人とデートするのは、若者にとっては人生の一大事である。有給休暇は労働者の権利なのに、「許可」をいただかねばならない。おかしいじゃないか。「届」にせよ、という調子だ。
労働争議も多かった。労働組合を好む経営者はいない。不逞の輩に対しては徹底抗戦という経営者が少なくなかった。
1970年代に入ると、ニクソンショック、石油ショックなど相次ぎ、会社社会は揺れた。それに公害問題が大きかった。製造業では、労使挙げてこれらの難局に対処せざるを得なかった。省資源・省エネルギーの企業体質にする。経営者だけではない。労働者各人が知恵を出し、汗をかいた。
こうした気風は、刺々しかった労使関係の大きな変化要因となった。経営とは、手足を集めるのではない。頭を集める。経営に参加・参画する労働者があってこそ経営が盛んになる。1970年代後半は、戦後の労使関係がもっとも緊密化した時期である。
これは、日本の戦後民主主義のもっとも充実した時期だった。単純に上意下達を絶対化するのではなく、各々持ち場で最善を尽くそうとする。いみじくも、ジャパン・アズ・ナンバーワンと称された時代は、企業内民主主義においても上等な時期を創造した。
ところが、バブル経済の1980年代に入ると、労使の緊密化が親密化に変わった。わたしは「新しい緊張関係の創造」というレポートで警鐘を鳴らしたが、弛緩し始めると容易には立ち直れない。1990年代にはバブル崩壊で、労使関係は1960年代に逆流した。
企業社会は、官僚的管理システムそのものである。日本の民主主義は、官僚民主主義が支配している。それは、「人間の尊厳」とはだいぶ次元が違う。「人間の尊厳」、すなわち個人主義の原点であり、これが明確に意識されない民主主義は、実は、日本国憲法の民主主義とは大きく異なるものである。