筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
オックスフォードの今年の言葉は、「brain rot」、脳の腐敗に決まった。人の精神または知的状態の悪化という意味らしい。スマホに熱中して、とくに、つまらない、どうでもいいコンテンツを見過ぎた結果現れる状態で、ぼんやり、無気力、集中できない、認知機能の低下などであるそうだ。
スマホ認知症だと警鐘鳴らす向きもある。スマホに熱中していると、認知症とよく似た症状に陥るという。その症状は、やる気の低下、コミュニケーション能力の低下、企画・想像力の低下、体調不良・情緒不安定などである。
スマホでなくても、絶え間ないつまらないルーチンに身を置いていると、「あー、消耗したなあ」と思わず口を突いて出る。
わたしが主張してきた人生設計流でもこれらは説明できる。人間が活力を持って思索し行動するのは、自分が追求するなにかをもっている場合だ。さらに抽象化すると、これは「いきがい」といわれる。
逆に、自発性・主体性なく、ぽんやりした状態が続いていると活力を失う。
スマホを使っていると必ずbrain rotになるわけではない。なにかを追いかけて探している状態であれば気持ちは活性化する。主体性を失ってやたらスマホにのめり込むのが好ましくないのだろう。
ところで、こんな話は大昔から指摘されている。パスカル『パンセ』を読めばスマホなき時代のbrain rotがどんなものであるか、すぐに気づかされる。
人は、日々の生活に退屈しやすい存在であるが、退屈自体に慣れてしまって、退屈を退屈と感じなくなる。日々の人生のルーチンにどっぷり漬かっている。
たまたま、退屈に耐えられなくなると、気晴らし・手慰みの類を求める。実際は、ちょっとした気晴らし・手慰み程度ではすぐに飽きてしまう。だから、次から次へと目先の変わることを追い求める。実は、いたちごっこなんであって、これでは本来的に退屈を解消できない。
気晴らし・手慰みが目的化すると、「なにか面白いことないか」と鵜の目鷹の目なのだが、格別潤沢な資金をもっているわけでもないから、行き詰る。仮に潤沢な資金をもっているとしても、根本から楽しんでいるわけではない。実はおカネによってごまかされているだけである。
パスカルはこれを王様にたとえた。王様は全然退屈しない。取り巻きが次へと気晴らし・手慰みを引っ張り出してくれるからだ。しかし、王様のおかれた状況を考えてみれば、王様の脳はカラッポ、腐敗しているのと同じである。
かくして、パスカルは人間を「考える葦」と呼んだ。その含意は――人間の尊厳はすべて考えることのなかにある――という言葉に尽きる。
いかに文明の利器といえども、それによって人の思考能力が発展するわけではない。と思いつつ、やはり古典の魅力に改めて感じ入る。