筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
袴田冤罪事件について、最高検察庁と静岡県警の捜査・公判の検証が出された。予想しないではなかったが、お話にならない。
具体的明快に記述したのは、取り調べ手法に問題があったことだけで、他はグズグズと弁解にもならない弁解を連ねている。
卓抜した技術者であった昔の上司は、システムとか、仕組みという言葉を嫌った。もちろん、システム・仕組み・制度というものが組織や社会には必要である。しかし、それらはすべて人間が判断し行動すること抜きには成立しない。
ものごとが遺漏なく円滑に進捗するために、それらが定められたのだが、いかに立派な体裁が整えられていようとも、個人の判断・行動が的確でなければだめだ。ともすればトラブルが発生した場合、「システムが—」と弁解する連中が多いのを上司は常に意識して、そこへ逃げ込まないように注意を払っていた。
検察や警察は典型的な官僚組織である。しかも、正義の名をかざして仕事を進めること著しい。
社会通念では、なるほど正義のために活動するにしても、こと志と異なる場合が発生するのは当たり前である。まともな組織は、行動に対してフィードバック機能が作用する。計画して実行して、反省するのである。
検察は正義である。間違えてはいけないという意識がきわめて強い。それはプロとしての責任感であり、大事である。ところが、間違えてはいけない、が間違えないと転換してしまうと、いわゆる無謬性のドグマに凝り固まる。
いかに優秀な人間であろうとも、判断ミスや失敗が発生しやすい。しかし、間違えないのだというドグマに凝り固まっていると、すべては、自分たちの行為が正しいという結論に向かって理屈を捏ねまくるという、悪しき組織文化が育ってしまう。
「疑わしきは罰せず」という。これは、正義をかざす仕事であるからこそ、そのドグマによって真実を見逃さないように、自重自戒の言葉である。
今回の検証を読んで、そのような自重自戒の精神がまったく見られないのはまことに腹立たしい。全体を貫くのは自己弁護、自己正当性のみである。
組織において、メンバーは局部の機能に過ぎない。しかし、人間は、機械を構成している部品ではない。社会に発生する現象は、決められた手順で処理できるようなものばかりではない。
組織における人間が、機械システムにおける部品と異なるのは、自分の頭で思考できることである。機械の部品には反省が組み込まれていないが、人間には「懐疑」する精神がある。手順に従って行動するにしても、「なんか変だなあ」と察知するのが人間たる価値である。
組織目的がいかに正しかろうと、「なんか変だなあ」という事態が発生しないわけはない。ところが、自分から部品に徹しようとする人間は少なくない。残念ながら、これこそが社会の歯車を狂わせる獅子身中の虫である。
組織目的からすれば、一切懐疑心をもたず、機械部品のごとくに行動する人間――これを官僚と呼ぶが――がもっとも優秀なように錯覚してしまう。組織目的が正しく、自分はそれのために雑念を排して打ち込むのだから正しいという病的な自尊心が育つ。
「組織のために」「会社のために」という大義名分を妄信して、不祥事を起こした事例は枚挙にいとまがない。
お隣の国では、検察上がりの大統領が戒厳宣言をして、大騒動になっている。自分のなかの人間を抑え込み、システムの正義=権力と同化する精神状態が独裁者である。意図的か、無意識的かはともかく、人間が機械部品と同じになる傾向は、だれもが抱えている危険な要素である。
反省だけならサルでもできるという戯れ言葉を思い出す。反省のポーズすら取られない組織を考えると背筋が寒くなる。