週刊RO通信

ある大記者の精神!

NO.1594

 「生涯一記者」という表現には、ちょっとした吸引力がある。記者を旋盤工、塗装工、セールスマンなどに置き換えてもいい。この道一筋いぶし銀の腕の冴えという調子だ。ゲーテ描くファウストは、聖書の「はじめに言葉ありき」を、「はじめに業ありき」と書き換えた。鍛えぬき、磨きぬいた技量によって人々のために貢献する。本人としては、自負であり誇りである。

 記者の腕前はペン一本、「ペンは一本、箸は二本。ペンは箸にはかなわない」とぶつくさ言った作家もいた。縦横無尽のペン先で人々の耳目を集めるならばまことに素晴らしい。食うだけの箸二本ではなんの変哲もない。

 なんのためにペンを走らせるか? 世の中には、中心があれば周縁がある。中心がどう動くかによって周縁もまた動く。社会はたくさんの人が集まっているが、周縁は中心に対して遅れたり劣ったり、あるいは中心の不合理な動きが周縁に押し付けられやすい。社会の問題が、格差や差別として大きく現れるのは、まさしく周縁に矛盾が集中するからである。

 記者たる者は知識人である。おさおさ研究活動に余念がない学者研究者の仕事も大変だが、記者は、生きている社会現象をあわただしく取り扱って、人々に提供するのだから彼らの仕事に優るとも劣らない知性である。そして、なによりも社会の様々な問題を解決するための触媒だともいえよう。

 中心を権力と考えれば、周縁は非権力である。さてそこで、知識人たる記者は権力側に立つべきだろうか、非権力側に立つべきだろうか? 

 中心は、国家あるいは大企業などである。権力は権威を伴い、そのまわりはつねにスローガン、ドグマが溢れている。そして、忠誠と従属を要求する。

 ならば、記者たる知識人は、周縁側の存在たるしかない。なぜなら、知識人は中心が作り出した矛盾に対して、それを解決しようとする存在だからである。知識人が中心と同一になれば知識人たる価値は薄い。

 E.W.サイード(1935~2003)は主張した。――知識人は亡命者にして周縁的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。――

 このほど98歳で亡くなった渡辺恒雄氏は、先月まで読売新聞社に定期的に出社し、主筆として生涯一記者であった。が、筆者が子供時代からいまも憧れている記者の肖像とは重ならない。記者ではあろうが、周縁に立つ知識人の輝きが見えてこないのが遺憾である。

 主筆とは、記者の首位にあって、主要な論説・知識人の記事を担当する。最後の最後まで主筆の位置にあったのだから大記者である。しかも読売新聞社の最高権力者である。しかし、大記者、必ずしもいぶし銀の腕の冴えとはいかない。剛腕、辣腕、知識人の記者とはいえない。

 渡辺氏は、「社論に反対する者はダメ、統制する」と公言してはばからず、有言実行、社内においてはワンマンとして君臨した。これは記者としては落第である。大記者の本質はワンマン経営者にして、たくさんの記者が失意を抱えて沈黙し、あるいは読売を去った。これは間違いない事実である。

 だいぶ昔のこと、某論説委員が筆者に、「いつもお元気で書いていますね」という。明らかに嫌味冷やかしなので、つい「オタクの新聞は与党の提灯持ちなんですか」と返した。「いやあ、書きたいことがあっても書けません。ナベツネに逆らえませんから」と弁解する。

 「それじゃ、民主主義の旗を降ろすのですか?」、「いや、もちろん民主主義の旗は降ろしません」。「そうですかね、たかが! 社内の暴君を改めさせられないのに、民主主義を守られますかねえ」。上品でもなく、単なる嫌味であって、いまも言い過ぎたと思ってはいるが、主張した中身は正しい。

 トランプや、プーチンや、ネタニヤフは現れていないが、わが国の状態を眺めてみれば、どこにも中心がなく、ふわふわして、奇妙で、アブナイ、ぬるま湯みたいな雰囲気がしてならない。しかし、民主主義がしっかりしているかどうかを考えると、絶対におかしくなっている。

 もちろん、それが読売新聞やナベツネの責任だというのではない。要するに、民主主義の木鐸としての記者を考えるならば、権力と一体化するような記者が輩出することだけはご免こうむる。例外であってほしい。