週刊RO通信

4月のメーデーに寄せて

NO.1508

 はるか昔、わたしは5万人の組合で、情報宣伝部長として季刊雑誌の編集に8年間携わった。組合費を投入しているが、1冊250円で販売していた。いま見ても一級品とはいかないものの、まあまあそこそこである。

 文字は8ポで、ざっと100ページ。週刊誌とほぼ同じ容量である。有料購読者は前任者3千部くらいだったのを最盛期には1万部以上販売! した。もちろん各支部の情報宣伝担当には、組合員数に応じて販売目標を押し付けたので、だいぶ恨まれたようでもあった。

 雑誌の性格は理論文化誌とした。生意気だが、労働組合の『朝日ジャーナル』をめざす心意気、広く社会に目を向けた内容で、わが組合員だけではなく経営側にも世間にも発信するつもりである。外部識者の原稿もお願いしたが、基本的にはわが組合内部でライターを育てるように取り組んだ。

 もっとも優秀なライターは、全国を巡って数十本の本格的な長編ルポルタージュを書き上げた。思い出に残るのは、沖縄主席屋良朝苗さんが任期を終えられたとき、世間の新聞雑誌に先駆けて長時間インタビューを成功させた。屋良さんへの接近は、クリスチャンの組合員が、屋良さんが通う教会の牧師さんに連絡をつけて、牧師さんから了解をとってもらった。

 ある年の組合定期大会で、大会代議員から「どうして非組合員にも250円で販売するのか」という批判的質問が出された。たいした質問ではないようでもあるが、案外大事なことが背景にある。答弁は、第一に非組合員というが組合創立以来、組合員として活動され、われわれの潤沢な闘争資金は先輩方の置き土産である。第二に組合は自分たちの主張を、組合員以外、とくに経営側にもひごろからきっちり理解してもらいたい。ましてOBは上得意だ。250円で買っても読もうと思われる本をつくりたい。

 またある時は先輩担当者から「レベルが高すぎるのじゃないか。難しい漢字も多い」という苦情があった。「難しい漢字があれば辞書を引けばよい」と回答すると、「組合の発行物を読むのに辞書を引く人はいない」と反論する。「難しいとか、レベルが高いとかいうのは正しくない。組合の理論文化水準を、どんどん高めるべきだ。組合(員)がもっとも大事に挑戦するべきは、ひたすらレベルアップをめざすことだ。レベルが低いものをつくったのでは、世間が組合を認知してくれない。これがつねづね考えていたことだった。

 いまでも痛切に考える。1つは働くということを、働く人自身がもっと切実に考えるべきである。勤め人といおうが、サラリーマンといおうが、もっとも活動的な生涯のほとんどを職業生活として過ごす。働くということは、傍をラクにすることだとか、賃金はがまん料だ、みたいな考え方も悪くはないが、それだけではいかにも物足りない。誰でも、自分が本気で取り組み、気持ちよく燃焼を継続させる時間の過ごし方をしたいであろう。

 仕事を欲求説に基づいて展開すれば、生存欲求(賃金がまん料)、社会的欲求(仕事に個性を発揮できる)、成長欲求(天分を生かして社会参加)へと高みに進む。それをLabor・Work・Actionと表現したが、いろいろ調べてみるとすでにハンナ・アーレント(1906~1975)や、尾高邦雄(1908~1993)の説があって、少しがっかりした。まあよろしい。いずれにせよ、Actionをめざす労働生活は素晴らしいと思う。

 確信をもって、聖書の「はじめに言葉ありき」を「はじめにに業(わざ)ありき」と置き換えたのは、ゲーテ(1749~1832)が描く『ファウスト』だった。あちらこちらの現場で、ファウストに出会うのは愉快である。その人と周辺はいつも活気に満たされている。あえて問う。いまのわが社会はファウスト的心意気が片隅に追いやられているのではないか。

 連合メーデーが終わった。岸田氏が顔を出せば盛り上がるようなものではない。かつて中央メーデーは30万人、組合員の声がこだましたものだ。いまはその10分の1くらいか。労働の元締めたる組合関係者には、ぜひとも次の言葉の深い意義を読み取っていただきたい。老爺心はご容赦。

 ――わたしはわたしの生産活動において、わたしの個性とその独自性とを対象化し、したがって活動の間に個人的な生命発現をたのしむとともに、対象物を観照することによって個人的な喜びを味わう――